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三国志記録

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三国志のあれこれを記録せしものなり^_^
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記事一覧

三国志記録29

190年(初平元年)春正月 反董卓の挙兵をした時、総大将の袁紹本初(えん・しょう・ほんしょ)…

kikuzirou
2年前
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三国志記録28

204年(建安9年)秋7月 袁尚顕甫(えん・しょう・けんほ)は、鄴(ぎょう)救援に引き返してき…

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2年前
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三国志記録27

204年(建安9年)春正月 曹操(50)は黄河を渡り、淇水(きすい)の流れをせき止めて、白溝(…

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2年前
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三国志記録26

203年(建安8年)秋7月 曹操(49)は布令を出した。 「動乱以来十五年間、若者たちは仁義礼譲…

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2年前
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三国志記録 1

後漢時代の地方行政区分里が最低単位。 十里で、一亭。 亭には亭長がいる。 十亭が一郷。 …

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3年前
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三国志記録 2

袁紹と曹操の若い頃袁紹本初(えん・しょう・ほんしょ)の袁家は、高祖父の袁安(えん・あん)…

kikuzirou
3年前
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三国志記録 3

若き日の曹操曹操は、頓丘(とんきゅう)の令に昇進。 令は県の長官。 大県を令といい千石。 中小県を長といい四百石と三百石。 しかし、従妹の夫である隠彊侯の宋奇(そう・き)が処刑され、連座して免職となった。 曹操は、兵法好きで、諸家の兵法の選集を作り『接要』と名付けた。 他にも『略要』を選集し、『孫子兵法』の注釈書も著した。 曹操は古学に明るいということで、中央に呼び戻され議郎に任じられた。 184年(光和7年) 黄巾の乱が勃発。 曹操(30)は騎都尉に任命さ

三国志記録 4

187年(中平4年)ころ 冀州の刺史、王芬(おう・ふん)、南陽の許攸子遠(きょ・ゆう・しえん…

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3年前
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三国志記録 5

188年(中平5年)8月 曹操(34)は都に呼び出され、典軍校尉となった。袁紹は中軍校尉となった…

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3年前
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三国志記録 6

189年(光熹元年) 中常侍や黄門侍郎は、董卓招聘の情報を耳にし、揃って何進を訪れ陳謝し、御…

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3年前
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三国志記録 7

189年(永漢元年)9月1日 献帝劉協(9)が即位。永漢と改元。 189年(永漢元年) 兗州牧の橋…

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3年前
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三国志記録 8

189年(中平6年)12月 光熹・昭寧・永漢の三つの元号を廃し、中平に復す。 189年(中平6年)1…

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三国志記録 9

190年(初平元年) 曹操(36)は河内(かだい)に移動した。 袁紹本初は、玉印を上げて見せ、…

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3年前
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三国志記録 10

191年(初平2年) 黒山(こくざん)の賊、于毒(う・どく)、白繞(はくじょう)、眭固白兎(すい・こ・はくう)ら十余万の軍勢が魏郡(鄴ぎょうを含む地域)に攻め込んできた。 東郡太守の王肱(おうこう)は防御しきれなかった。 河内(かだい)の曹操(37)は、兵を引き連れ東郡に入り、黒山賊鎮圧に乗り出した。 191年(初平2年) 董卓軍が西に向かい、函谷関に入ったので、袁紹本初は延津(えんしん)まで軍勢を移動させた。 191年(初平2年)4月 董卓軍は函谷関より長安に引き揚