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三国志記録 10

191年(初平2年)
黒山(こくざん)の賊、于毒(う・どく)、白繞(はくじょう)、眭固白兎(すい・こ・はくう)ら十余万の軍勢が魏郡(鄴ぎょうを含む地域)に攻め込んできた。

東郡太守の王肱(おうこう)は防御しきれなかった。

河内(かだい)の曹操(37)は、兵を引き連れ東郡に入り、黒山賊鎮圧に乗り出した。


191年(初平2年)
董卓軍が西に向かい、函谷関に入ったので、袁紹本初は延津(えんしん)まで軍勢を移動させた。


191年(初平2年)4月
董卓軍は函谷関より長安に引き揚げた。


191年(初平2年)
曹操(37)は、濮陽(ぼくよう)にて黒山(こくざん)の賊の一味である白繞(はくじょう)を撃破し、黒山賊撃退に成功した。

そこで袁紹本初は、曹操の東郡太守任命を上奏し、東武陽(とうぶよう)に政庁を置かせた。


191年(初平2年)
公孫瓚伯珪が、董卓討伐を名目に冀州に侵入してきた。

実は冀州牧の韓馥文節を倒す気でいた。

韓馥も内心不安で堪らなくなり、鄴(ぎょう)から冀州の政庁がある安平(あんぺい)に戻った。

公孫瓚はやはり、冀州を狙って攻めてきた。

韓馥軍は迎え撃ったが、敗北した。


191年(初平2年)7月
袁紹本初は、韓馥文節を脅して、冀州を奪った。


192年(初平3年)春正月
曹操(38)は黒山賊討伐を続行し、頓丘(とんきゅう)に陣を置いた。

于毒らは、この隙に東武陽を攻めた。

曹操の部下たちは、救助に引き返すべきだと主張したが、曹操は言った。

「孫臏(そんぴん:孫子)は趙国を救うために(趙に派兵した)魏の本国を攻撃した。耿弇(こうえん)は長安に向かう目的で(まず)臨菑(りんし)を攻撃した。賊は我が軍が西に向かったと聞けば引き返すであろう。武陽は自然と危機を脱する。引き返さなければ、我が軍は敵の本拠地を破ることが出来るし、奴らも絶対に武陽を陥落させることは出来ぬ。」

こうして曹操は進軍を続け、黒山を攻撃した。

于毒はこれを聞くと、武陽を放置して引き返した。

曹操は眭固白兎(すいこ)と血縁者と思われる眭元進(すいげんしん)を待ち伏せて攻撃し、また匈奴の於夫羅(おふら)を内黄(ないこう)において攻め、いずれも大勝した。

於夫羅は、南匈奴の単于の子である。

中平年間に匈奴の兵を徴発したとき、於夫羅は統率者として漢を援助した。

たまたま本国で反乱が起き、南単于が殺された。

於夫羅はやむなく中華に留まった。

天下動乱に付け込み、西河(せいが)の白波(はくは)の賊(西河県の白波谷に起こった黄巾の一派で、のちに山賊や盗賊の代名詞となる)と合流し、太原・河内(かだい)を破り、諸郡を荒らしまわって乱暴を働いていた。

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