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三国志記録29

190年(初平元年)春正月
反董卓の挙兵をした時、総大将の袁紹本初(えん・しょう・ほんしょ)は、曹操(36)に尋ねた。

袁紹「もし事が成就しなければ、拠るべきところは、どの方面でしょうな?」

曹操「足下の意中は?」

袁紹「私は南方は黄河に頼り、北方は燕(えん)・代(だい)を頼みとし、戎狄(じゅうてき:北方蛮族)の軍勢を合わせ、南に向かって天下の覇権を争う。この策であれば、ほぼ成功できると思うが・・・。」

曹操「私は天下の智者勇者に任せ、道義をもって彼らを制御する。うまくいかない事はないでしょう。殷(いん)の湯王(とうおう)や周(しゅう)の武王といった天子は、天下を支配する前に、根拠地を同じくしたでしょうか。もし堅固さを拠り所とするならば、機に応じて変化することは不可能ですぞ。」


204年(建安9年)9月
曹操(50)は布告を出した。

「河北は袁氏の難によって被害を受けた。よって、今年の租税は供出しないようにさせよ。」

権勢ある者が土地・貨財を兼併(けんぺい)することに対する法令を厳しくし、人民は大喜びだった。

「孔子の『論語』季氏篇によると『国をたもち、家をたもつ者は、寡(すくな)きを患(うれ)えずに、均しからざるを患え、貧しきを患えずに、安からざるを患える』という。袁氏の政治では、権勢ある者を思いのままに振る舞わせ、親戚には兼併を許した。最下層の民は、貧しく力弱いのに、肩代わりして租税を出しており、家産を売っても、命令に応ずるには不十分であった。審配正南(しん・ぱい・せいなん)は、罪人となった親族を匿い、亡命者の親分となるほどだった。住民が親しみなつき、軍事力が強大になることを希望したとしても、どうして可能であろうか。さて、田地に対する税として、一畝に四升を取り立て、戸税として絹二匹と綿二斤を差し出すだけにして、その他は、勝手に徴発することは許さぬ。郡国の太守・相は、はっきりと監察し、豪民に隠匿することがある一方で、弱き民に二重に税をかけることの無きようにせよ。」

献帝(朝廷)は曹操に冀州(きしゅう)の牧を担当させ、曹操は兗州(えんしゅう)の牧を辞退して返上した。

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