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三国志記録27

204年(建安9年)春正月
曹操(50)は黄河を渡り、淇水(きすい)の流れをせき止めて、白溝(はくこう:運河)に水を入れ、糧道を通じた。


204年(建安9年)2月
袁尚顕甫(えん・しょう・けんほ)は、再び袁譚顕思(えん・たん・けんし)を攻撃し、蘇由(そ・ゆう)と審配正南(しん・ぱい・せいなん)を鄴(ぎょう)の守備に残しておいた。

曹操(50)が洹水(えんすい)まで軍を進めると、蘇由は降伏した。

鄴に到達すると攻撃に移り、土山と地下道を築いた。

武安(ぶあん)の長で、袁尚軍の武将、尹楷(いん・かい)が毛城(もうじょう)に駐屯しており、上党(じょうとう)からの糧道を確保していた。


204年(建安9年)夏4月
曹洪子廉(そう・こう・しれん)を鄴攻撃に残し、曹操(50)自身は、兵を引き連れて尹楷(いん・かい)を攻撃し、これを討ち破って帰った。

袁尚の将で、沮授(そ・じゅ)の子、沮鵠(そ・こく)が邯鄲(かんたん)を守っていたが、攻撃して、これも陥落させた。

易陽(えきよう)の令、韓範(かん・はん)と渉(しょう)の長、梁岐(りょう・き)が県を上げて降伏したので、曹操は関内候(かんだいこう)の爵位を与えられた。


204年(建安9年)5月
土山と地下道を壊し、城の周囲に濠を掘り、漳水(しょうすい)を決壊させて城に灌いだ。

城中では半数以上が餓死した。

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