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三国志記録 5

188年(中平5年)8月
曹操(34)は都に呼び出され、典軍校尉となった。袁紹は中軍校尉となった。


189年(中平6年)
霊帝(劉宏)が病に倒れる(不予)。


189年(中平6年)4月11日
霊帝(劉宏)崩御。


189年(光熹元年)4月12日?
皇子劉弁(14)が即位。光熹と改元。


189年(光熹元年)
袁紹は大将軍何進に食客の張津(ちょうしん)を差し向けて進言した。

「黄門侍郎や中常侍が権力を握ってから、もう長いことになります。また、永楽太后(霊帝の母、董氏)は中常侍たちと結託して利益を上げることに専念しております。将軍には天下を整理され、四海の人々のために害毒を除かれますように。」

何進はもっともだと思い、宦官誅滅を決意した。


189年(光熹元年)
大将軍何進は、幕府に詰めていた王匡公節(財貨軽んじ、施し好きの任侠)に軍を動かすのに必要な割符を与え、徐州に赴き、強弩を徴発してくるように命じた。

王匡公節は早速、徐州に向かい、強弩五百を徴発し、雒陽に移送させようとしたが、何進が殺害されたと聞き、郷里へ帰った。


189年(光熹元年)
何進と袁紹の宦官誅滅計画で、何進は董卓を呼び寄せた。

宦官誅滅を承知しない何太后に圧力を与えるためである。

このとき、何進は袁紹の進言を聞いて、董卓招聘を決めたようである。

「以前、竇武(とうぶ)は彼らを処刑しようとして、逆に殺されてしまいました。原因は、計画の言葉が漏洩し、五営(屯騎、越騎、歩兵、長水、射声の五校尉)の士卒を兵として使おうとしたことにあります。五営の士卒は都育ちで、宦官に対して恐怖心を持っているにも関わらず、竇武はこれを用いようと致しました。案の定、彼らは寝返って宦官に帰服し、その結果、竇武は破滅を招いたのです。今、将軍は太后の兄弟という尊い御身分の上に、両幕府(大将軍何進の幕府と車騎将軍何苗の幕府のこと。役人を自由に任命できる)は、共に強力な軍隊を抱えており、配下の将は皆、英雄や名士で、喜んで死力を尽くす者たちばかりです。事は将軍の手中にあり、天が時運を助けてくれています。天下のため、欲の張った汚らわしい連中を取り除けば、将軍の功業は著しく、名は後世に残すことになり、周の申伯(しんはく)にも劣らぬものとなりましょう。今、大行(たいこう:先帝の遺骸)は前殿におわしますゆえ、将軍は詔勅に従い、軍を統率して、宮外を守護なされ、宮中に参内してはなりませぬぞ。」

(注:周の申伯は、中興の祖である宣王の后の申后の父。王の政治を補佐した)

これを聞き、曹操(35)は嘲笑した。

「去勢された宦官はいつの時代にもあって、当然のもの。ただ、その御代の君主は、彼らに権力や恩寵を与えてはならず、このような事態を招かないようにすべきだ。もし彼らの罪を処断するのならば、張本人を処刑すべきで、一人の獄吏で充分だ。どうしてごたごたと外にいる将軍を召し寄せる必要があろうか。彼らを皆殺しにするつもりになれば、事は露見するに違いない。私には、その失敗が見える。」


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