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三国志記録 3

若き日の曹操

曹操は、頓丘(とんきゅう)の令に昇進。

令は県の長官。

大県を令といい千石。

中小県を長といい四百石と三百石。

しかし、従妹の夫である隠彊侯の宋奇(そう・き)が処刑され、連座して免職となった。


曹操は、兵法好きで、諸家の兵法の選集を作り『接要』と名付けた。

他にも『略要』を選集し、『孫子兵法』の注釈書も著した。


曹操は古学に明るいということで、中央に呼び戻され議郎に任じられた。


184年(光和7年)
黄巾の乱が勃発。

曹操(30)は騎都尉に任命され、潁川の黄巾賊を討伐した。


中常侍の趙忠(ちょう・ちゅう)は宦官たちに向かって「袁本初は、じっとしたまま声望を高め、お召しにも応じないで、命知らずの連中を飼っている。この男は、何をするつもりでいるのだろうか。」と語った。

叔父の袁隗次陽(えん・かい・じよう)が耳にして、袁紹を責めた。

「おまえは今に、我が一族を滅ぼすぞ。」

袁紹は大将軍、何進遂高(か・しん・すいこう)の掾(えん:属官)から推挙されて、侍御史となった。

掾は何顒伯求(か・ぎょう・はくきゅう)であろう。


185年(中平2年)ころ
曹操は済南国(さいなん・こく)の相に昇進した。

王国や侯国には相が置かれた。

王国は一つの郡を領地とし、侯国は一つの県を領地とした。

王国の相は太守に相当し、禄高は二千石。

侯国の相は県令・県長に相当した。

曹操の場合は王国の相。

済南には十県が存在した。

済南の長吏(県令・県長)には貴族外戚に迎合する者が多く、贈賄汚職が横行していた。

権力者を後ろ盾にしていたので、歴代の相によって告発されることはなかった。

しかし曹操は、上奏して八割方を免職にした。

これを聞いた人々は震え慄き、国内は襟を正し、悪人は他の郡に逃亡してしまった。

また、衆を惑わす祭祀を厳禁した。

この地では、前漢の城陽景王劉章(りゅう・しょう)を祀る祠があった。

六百余りの祠があったという。

商人の中には、二千石(相の禄高に相当)の車・衣服・供揃いを真似て、伎楽をしつらえる者があり、日々に奢侈はつのり、人民はそのために困窮に陥っていたが、歴代の長吏には思い切って禁止根絶する者がいなかった。

曹操は、祠を全て取り壊し、邪悪な宗教行事を除去して、淫祀を絶滅させたのであった。

しかし、このような政策を遂行していたこともあり、周りとしばしば衝突した。

曹操は、一族に災難をもたらすのを気遣い、かといって、道義にはずれてまで迎合することもできず、結局、天子の傍に留まることを要請した。

その結果、召還されて、東郡の太守に任じられたが就任せず、病気にかこつけて郷里に帰ったのであった。

城外に家を建て、春夏は書物を読み、秋冬は狩猟に出かけ、自己の生活を楽しんだ。

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