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三国志記録26

203年(建安8年)秋7月
曹操(49)は布令を出した。

「動乱以来十五年間、若者たちは仁義礼譲の気風に接していない。私はそれを甚だ痛ましく思う。よって郡国に命じて、それぞれ学問を修めしめよ。五百戸以上の県には校官(学官?)を置き、その郷(県の下の行政単位)の俊才を選抜して教育を施せ。願わくば先王(過去の聖王)の道が廃れずに、天下に利益のあらんことを。」


203年(建安8年)8月
曹操(49)は劉表景升(りゅう・ひょう・けいしょう)(62)を征討し、西平(せいへい)に駐留した。

曹操が鄴(ぎょう)を去って南に帰ると、袁尚顕甫(えん・しょう・けんほ)と袁譚顕思(えん・たん・けんし)は冀州(きしゅう)の支配権を争い、袁譚は袁尚に討ち破られ、逃走して平原(へいげん)を保持した。

袁尚が、これを激しく攻撃したので、袁譚は辛毗佐治(しん・ぴ・さじ)を派遣して、降伏を乞い、救援を要請した。

諸将は皆、ためらったが、荀攸公達(じゅん・ゆう・こうたつ)(47)は、曹操に、それを許すよう勧めた。

曹操自身も、それを聞いて、こう言った。

「私が呂布を攻撃した時、劉表は侵略して来なかった。官渡の戦役では、袁紹を救援しなかった。とすれば、これは自己保全のみを願う逆徒である。あとの計画に回してよろしい。袁譚と袁尚は狡猾だから、その乱れにつけこまなければならない。たとえ袁譚が不誠実で、最後まで大人しくしていることはないにしても、我が軍が袁尚を討ち破り、その領地を全て手に入れるならば、利益は当然多い。」

曹操はそこで、西平(せいへい)から軍を引き上げて帰った。


203年(建安8年)冬10月
曹操(49)が黎陽(れいよう)に到着すると、息子の曹整(そう・せい)のために、袁譚顕思の家と縁組みした。

袁尚顕甫は、曹操が北に向かったと聞くと、平原(へいげん)の包囲を解き、鄴(ぎょう)に帰った。

東平(とうへい)の呂曠(りょ・こう)と呂翔(りょ・しょう)が袁尚に背き、陽平(ようへい)に駐屯していたが、その軍勢をあげて降伏し、列侯に封じられた。

この時、袁譚顕思は、包囲が解けると、内密に将軍の印綬(いんじゅ:官印とそれを下げる紐)を呂曠に与えた。

呂曠は、印を受け取ると、それを曹操のもとに送って寄越した。

曹操は言った。

「私は当然、袁譚が小賢しい計略を持っていることを存じている。私に袁尚を攻撃させておいて、その暇に民衆を取り込み、軍勢を集め、袁尚が敗れれば、自分は強力になって、我が軍の疲弊に付け込むつもりなのじゃ。されど、袁尚が敗れれば、我が軍は盛んになる。どうやって疲弊に付け込めるのか。」

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