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三国志記録 9

190年(初平元年)
曹操(36)は河内(かだい)に移動した。

袁紹本初は、玉印を上げて見せ、曹操に、軍兵が少ないので、揚州に赴き、兵を募集するよう命じた。

主君面をする袁紹に、笑いながらも心中憎悪した曹操であったが、軍兵が少ないのは事実であったため、憤りを堪えて、夏侯惇らと共に揚州に向かった。

揚州牧の陳温と丹陽太守の周昕(しゅうきん)は四千余人の兵を与えてくれたが、龍亢(りゅうこう)まで引き返したとき、士卒の多数が反乱を起こした。

反乱者は夜中に曹操の軍幕を焼いた。

曹操らは剣を手に数十人を殺したので、残りの者は恐れをなして道を開いた。

そこで軍営を脱出することができた。

反乱に与しなかったのは五百余人であった。

銍(ちつ)、建平(けんぺい)に到達するまでに、再び兵を収容して千余人を手に入れ、進軍して河内(かだい)に駐屯した。


190年(初平元年)
劉岱公山と橋瑁元偉は仲が悪く、ついに劉岱が橋瑁を殺害した。

そして、王肱(おうこう)を東郡太守の役につけた。


190年(初平元年)
袁紹本初は、冀州牧の韓馥文節と共謀し、幽州牧の劉虞(りゅうぐ)を皇帝に立てようと企てたが、河内(かだい)の曹操(36)は猛烈に反対し、返書した。

「董卓の罪は、四海に暴露されております。我々が大軍勢を集め、正義の軍を起こした結果、遠きも近きも響きがこだまするように呼応しない者はありませんでした。これは、正義によって行動しているからこそです。今、幼き天子は微弱で、奸臣に制御されておりますが、昌邑王(しょうゆうおう)の如く国家を滅亡に導く兆しがあるわけではありません。それなのに、にわかに交代させますと、天下の人々は、いったい平気でおられましょうか。諸君は(劉虞のいる)北方を向きなさい。私は(献帝のおられる)西方を向いておりますゆえ。」


191年(初平2年)春正月
袁紹本初と冀州牧の韓馥文節は、劉虞(りゅうぐ)を皇帝に擁立しようと、使者として任県の元県長の畢瑜(ひつゆ)と元楽浪太守の張岐(ちょうき)を派遣し、印章を奉ったが、劉虞は受け取ることを承知しなかった。

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