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三国志記録28

204年(建安9年)秋7月
袁尚顕甫(えん・しょう・けんほ)は、鄴(ぎょう)救援に引き返してきた。

諸将は皆、「これは本拠に帰る軍で、各人が自発的に戦います。避けた方がよろしいでしょう。」と主張したが、曹操(50)は言った。

「袁尚が大道から来れば避けなければならないが、もし西山(せいざん)を通って来れば、それは負けに来るということだ。」

袁尚は、果たして西山を通り、滏水(ふすい)を前にして陣営をはった。

このとき、曹操軍は物見の部隊を数名派遣し、前後に渡って調査させていた。

皆、「間違いなく西道から参りまして、すでに邯鄲(かんたん)におります。」と言った。

曹操はたいそう喜び、諸将を集めて言った。

「私はすでに冀州(きしゅう)を手に入れたぞ。諸君は、それを知っているか。」

「知りません。」

曹操「諸君はまもなく、目の当たりにするだろう。」

夜中、袁尚は兵を出して、鄴城の包囲陣を襲撃した。

曹操は迎撃して、これを討ち破り、逃走せしめ、そのまま彼の陣営を包囲した。

包囲が完成する前、袁尚は恐懼し、元豫州(よしゅう)の刺史(しし)であった陰夔(いん・き)と陳琳孔璋(ちん・りん・こうしょう)を使者として降伏を乞うたが、曹操は許さず、包囲をますます厳しくした。

袁尚は夜に紛れて遁走し、祁山(きざん)を保持したが、追いかけて、これを攻撃した。

袁尚軍の武将、馬延(ば・えん)と張顗(ちょう・ぎ)らは戦闘を前にして降伏し、軍勢は総崩れとなった。

袁尚は中山(ちゅうざん)に逃走した。

その輜重をことごとく捕獲し、袁尚の印綬(いんじゅ:官印とそれを下げる紐)と節鉞(せつえつ:軍権のあかし。節は割符、鉞はまさかり)を手に入れた。

袁尚の降兵を家族たちに見せると、城中では戦意を喪失した。


204年(建安9年)8月
審配正南(しん・ぱい・せいなん)の兄の子、審栄(しん・えい)が夜中、守備していた城の東門を開け、曹操(50)の兵を入れた。

審配は迎え撃って戦ったが敗れた。

曹操は審配を生け捕りにし、これを斬り、鄴(ぎょう)は平定された。

曹操は袁紹の墓に赴いて祀り、涙を流した。

袁紹の妻をいたわり、その下僕と宝物を返してやり、絹や綿の類を授け、官から扶持米を与えた。

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