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三国志記録 6

189年(光熹元年)
中常侍や黄門侍郎は、董卓招聘の情報を耳にし、揃って何進を訪れ陳謝し、御処置に任せますと述べた。

このとき、袁紹は、何進に、この機会に始末すべきだと再三にわたって進言したが、決心の揺らいだ何進は承知しなかった。

何進は、袁紹に雒陽内の武官を味方につけ、宦官たちを取り締まるように命じた。


189年(光熹元年)8月27日
大将軍何進は、虎賁中郎将の袁術公路(35)に部下の虎賁(近衛兵)の内から温厚な者二百人を選抜させて、彼らを禁裏に入れ、それまで武器を手にして宮中の門戸を警護していた宦官と交代させようとした。

中常侍の段珪(だんけい)らは太后の命令と偽って、何進に相談があるからと参内させた。

かくして、彼を殺害した。

激怒した袁術は虎賁を率いて南宮の嘉徳殿と青瑣門(せいさもん)に火を放ち、段珪らをあぶり出そうとしたが、段珪らは出てこず、帝(14)と皇弟(9)の陳留王を無理やり連れ出し、小平津(しょうへいしん)に逃走した。

袁紹は司隷校尉の許相(きょそう)を斬り、兵を指揮して宦官たちを捕らえ、老若の別なく皆殺しにした。

髭がなかったため、間違って殺された者もあり、ひどいのになると、裸になってみせて、やっと助かった者もいた。

宦官の中には、品行正しい者もいたが、それでもやはり免れることはできなかった。

死者は二千人余りであった。

段珪らを急追したため、彼らはことごとく河に身を投げて死んだ。


189年(昭寧元年)8月28日
少帝帰還を祝し、昭寧と改元。


189年(昭寧元年)
董卓仲潁は袁紹を呼び寄せ、帝(14)を廃して陳留王(9)を立てたいと相談をもちかけた。

当時、袁紹の叔父の袁隗次陽が太傅であったので、袁紹は、表向きは賛成しておいて、「これは重大事であるゆえ、退出して太傅と相談しなければなりません。」と言うと、董卓は「劉氏の血統など、あとに残すまでもない。」と言った。

袁紹は答えず、刀を横に抱き会釈して去った。

袁紹は、そのまま冀州に逃亡した。

侍中の周毖(しゅうひ)仲遠、城門校尉の伍瓊(ごけい)徳瑜(とくゆ)、議郎の何顒(かぎょう)伯求(はくきゅう)は、董卓に信頼されていた。

彼らは袁紹を助けるため、董卓に進言した。

「そもそも天子の廃立は重大事であり、普通の人間が関わることではございません。袁本初は物事の本質を理解せず、恐れ慄いて出奔したのです。他に思惑などあろうはずもありません。今、彼を賞金付きで厳しく追及したならば、進退窮まって、必ず変事を引き起こすでしょう。袁氏は四代にわたって恩徳を施し、食客や元配下であった官吏が天下にあまねく存在しております。もし豪族を糾合し、軍勢を集め、兵を挙げるようなことになれば、山東(東中華)は公の手の届かぬものになるでしょう。彼を許し、一郡の太守に任ぜられるがよろしい。さすれば、袁本初は罪を免れたことを喜び、必ずや、心配はないでしょう。」

董卓はもっともだと考え、かくて袁紹を渤海の太守に任じ、郊郷侯に取り立てた。

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