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三国志記録 1

後漢時代の地方行政区分

里が最低単位。

十里で、一亭。

亭には亭長がいる。

十亭が一郷。

郷には三老がいる。

郷の上に県あるいは侯国がある。

大県の長は県令といい、禄高は千石。

中小県の県長は長といい、四百石と三百石。

侯国の相も、これに準ずる。

県の上に郡あるいは王国がある。

郡の長は太守、王国は相。

禄高はいずれも二千石。

郡の上に州がある。

州の長は、刺史。

188年(中平5年)より、牧と呼称される。

刺史(牧)の禄高も二千石。

従事は刺史・牧や太守の下にあって種々の事務を担当する。

禄高は百石。

治中・別駕・簿曹・兵曹がある。


155年(永寿元年)
曹操(そう・そう)、沛国(はいこく)譙(しょう)県に生まれる。

字(あざな)は孟徳(もうとく)。

別名は吉利(きつり)。

幼名は阿瞞(あまん)。

父は曹嵩巨高(そう・すう・きょこう)。

母は丁氏。

弟に曹彬、曹玉。

若年より機智があり、権謀に富み、男伊達気取りで、勝手放題。

品行を整えることはしなかった。


161年(延熹4年)
劉備(りゅう・び)生まれる。

字は玄徳(げんとく)。


168年(建寧元年)9月。
大将軍の竇武(とう・ぶ)と太傅の陳蕃(ちん・ばん)が宦官殺害を計画し、逆に殺される事件が発生。

曹操(14)は、上奏文を奉って「竇武らが正直(せいちょく)でありながら、罠に嵌まって殺され、邪悪な人間が朝廷に満ち、善良な者は出世の道を閉ざされている」と述べた。

官界は賄賂が横行していた。

権勢のある者は怨みを買う行為があっても摘発を逃れ、勢力のない者は道義を守っていても陥れられる時代であった。

曹操は、そのことを憎んだ。

この年、天変地異があったため、広く政治批判を求める詔勅が下った。

曹操は改めて上奏し、厳しく諫言した。

「三公の摘発は、貴族・外戚の意向に逆らわないことを旨としている」

天子は心に悟り、三府に示して叱責したが、正されることはなく、政治と教化は一日一日と乱れ、乱暴者や狡猾な者がますます蔓延る有様であった。

曹操は、もう匡正しえないと悟り、もう二度と献策しなかった。


174年(熹平3年)
曹操(20)が孝廉に推挙されて郎(各部局の属官)となる。

曹操は太尉の橋玄公祖(きょう・げん・こうそ)に人物評価をしてもらった。

当時、彼は人物を識別する能力があると評判が高かった。

後漢末は人物評価の盛んな時代であった。

橋玄は曹操を見て、こう評価した。

「天下はまさに乱れんとしている。一世を風靡する才能がなければ救済できぬであろう。よく乱世を鎮められるのは、君であろうか。」

「わしはずいぶん天下の名士に会ったが、君のような者は初めてだ。君は自分を大切にしなさい。わしは歳を取った。妻子をよろしく頼みたいものだ。」

「君にはまだ名声がない。許子将と付き合うとよいだろう。」

そこで曹操は、許劭(きょ・しょう)子将(ししょう)を訪れ、許子将は彼を受け入れた。

それから名前が知られるようになった。

名士に名を知られ、認められることは、世に出るために重要なことであった。

あるとき、曹操は許子将に尋ねた。

「私はどういう人間でしょうか。」

許子将が返事をしないので、また尋ねると、「君は治世にあっては能臣、乱世にあっては姦雄だ。」と言った。

曹操は哄笑した。

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