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三国志記録 8

189年(中平6年)12月
光熹・昭寧・永漢の三つの元号を廃し、中平に復す。


189年(中平6年)12月
曹操(35)は、己吾(きご)において反董卓の兵を挙げた。

陳留の衛茲(えいじ)は、曹操に家財を提供して援助し、挙兵させた。

五千人の軍勢であった。


190年(初平元年)春正月
後将軍の袁術公路(36)、冀州の牧の韓馥文節(潁川(えいせん)の人)、豫州の牧の孔伷公緒(陳留の人)、兗州の牧の劉岱公山、河内(かだい)の太守の王匡公節(財貨軽んじ、施し好きの任侠、泰山の人)、渤海の太守の袁紹本初、陳留の太守の張邈孟卓、東郡の太守の橋瑁元偉(橋玄公祖の一族の者、子の世代に当たる)、山陽太守の袁遺伯業(袁紹の従兄)、済北の相の鮑信が反董卓の兵をあげた。

軍勢はそれぞれ数万、袁紹を盟主に推挙した。

袁紹は自ら車騎将軍の号を唱え、曹操(36)は奮武将軍を兼務した。


190年(初平元年)2月
董卓仲潁は挙兵のことを聞き、天子を長安に移した。

董卓本人は、そのまま雒陽に駐屯していたが、結局、宮室を焼き払った。

このとき、袁紹は河内(かだい)に駐屯し、張邈孟卓、劉岱公山、橋瑁元偉、袁遺伯業は酸棗(さんそう)に駐屯し、袁術公路(36)は南陽に、孔伷公緒は潁川(えいせん)に、韓馥文節は鄴(ぎょう)にあった。

董卓軍が強力なので、袁紹らは、あえて先陣を切ろうとしなかった。

曹操(36)は言った。

「正義の軍を起こして暴乱を懲らしめるのだ。大軍勢が既に勢揃いしているのに、諸君は何をためらっているのか。先に山東(北支那東部)挙兵の報に接した董卓が、皇室の権威を頼りとし、二周の要害を根拠とし、東方に気を配りつつ、天下を支配したならば、たとえ道義に外れたやり方で事をおこなったとしても、なおなかなかに厄介だった。今、宮室を焼き払い、無理やりに天子を御移しし、四海の内は揺れ動いており、どう落ち着くか分からぬ。これこそ天が奴を滅亡させる機会を与えていると思われぬか。一度の戦いで天下は定まろう。逃してはいかんのだ。」

曹操は兵を率いて西へ向かい、成皋(せいこう)の要害を占拠しようとした。

鮑信も同意し、これに加わった。

張邈孟卓は、配下の衛茲(えいじ)に兵を分け与えて曹操に随行させたが、滎陽(けいよう)の汴水(べんすい)まで来ると、董卓の将軍徐栄と遭遇した。

交戦したが負け戦となり、士卒に多数の死傷者を出した。

曹操は流れ矢に当たり、乗っていた馬は傷を受けた。

従弟の曹洪子廉が自分の馬を曹操に与えたので、曹操は夜陰にまぎれて逃れ去ることができた。

鮑信も重傷を負い、鮑信の弟の鮑韜(ほうとう)は討死した。

徐栄は、曹操の率いる軍が少ないのに、一日中、力の限り戦ったのを見て、酸棗はまだ容易に攻めきれないと判断し、兵を引き連れて帰還した。

曹操は酸棗に辿り着いたが、諸軍の兵十余万は、毎日酒盛りの大会議を開いており、積極的に攻勢に出るつもりはないようであった。

曹操は将軍たちの責任を追及した上で、計略を立てて言った。

「諸君、私の計略を聞いてくれ。渤海(袁紹)は河内の軍勢を引き連れて孟津(もうしん)に臨む。酸棗の諸将(張邈、劉岱、橋瑁、袁遺と曹操)は成皋(要害の町)を固め、黄河から運ばれてくる食料を貯蔵した大倉庫のある敖倉(ごうそう)を占拠し、轘轅(かんえん)、太谷(たいこく)の二つの街道を塞ぎ、その険要の地を完全に制圧する。袁将軍(袁術)は南陽の軍を率いて丹・析に陣を置き、武関から侵入して、長安を護る三つの地域である三輔(さんぽ)を揺るがす。皆、塁壁を高く深くし、交戦してはならない。どんどん疑兵を繰り出し、天下の趨勢を示した上で、順をもって逆を討つならば、たちまちのうちに平定できよう。今、軍は正義を旗じるしに行動を起こしているのだ。このまま躊躇って進軍しないとなると、天下の期待を裏切ることになる。ひそかに諸君のために恥ずかしく思うのだが・・・。」

しかし、張邈らは採用しなかった。

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