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三国志記録 7

189年(永漢元年)9月1日
献帝劉協(9)が即位。永漢と改元。


189年(永漢元年)
兗州牧の橋瑁元偉が董卓の命により、東郡太守となる。

尚書の周毖(しゅうひ)仲遠(武威郡の人)と城門校尉の伍瓊(ごけい)徳瑜(汝南郡の人)の推挙による。

それ以外にも、御史中丞の韓馥文節が冀州牧、平民だった王匡公節(財貨軽んじ、施し好きの任侠)は河内(かだい)太守となっている。

また、孔伷公緒は豫州牧、劉岱は兗州牧、張邈孟卓は陳留太守に任命されている。

全て、周毖仲遠と伍瓊徳瑜の推挙によるものである。

このとき、鄭泰が孔伷公緒の評価を董卓に進言している。

「孔公緒は清談高論が得意で、彼が息を吹きかければ、枯れ木に花を咲かせ、生木を枯死させるほどです。」


189年(永漢元年)
東郡太守の橋瑁元偉は、董卓の専横を憎み、三公から回付される公文書を偽造し、州郡に回した。

董卓の罪悪を書き並べ、「我々(三公)は追い詰められているが、自力で助かる手段がない。国家の災難を解き放ってくれる義兵を今か今かと待ち望んでいる。」と書いて、挙兵を促した。


189年(永漢元年)
韓馥文節が冀州の牧となった当時、冀州は人口多く裕福で、兵粮も充分だった。

袁紹が太守として渤海にいたが、韓馥はその挙兵を恐れ、数人の従事を派遣して、彼を監視させ、動きを取れなくさせていた。

韓馥は橋瑁元偉が偽造した三公の公文書を手にすると、従事たちに意見を求めて尋ねた。

「今、袁氏を援助すべきか。董氏を援助すべきか。」

侍中従事の劉子恵は言った。

「今、兵を挙げるのは国のためです。どうして袁だ董だと仰るのです。」

韓馥は発言の至らなさを自覚して恥じ入った。

劉子恵は更に述べた。

「戦というのは不吉な事柄です。最初に兵を挙げるべきではありません。今は人をやって、他州の動きを見守らせ、行動を起こす者がいれば、そのあとで同調するのがよろしいでしょう。冀州は他の州に対して弱いとは言えませんし、他人の立てる功績も冀州の上に出ることはないでしょう。」

韓馥はもっともだと思い、袁紹に書簡を送り、董卓の悪事を述べ、挙兵の意志を伝えた。


189年(永漢元年)
董卓仲潁が権力を握った。

董卓は曹操(35)を驍騎校尉に任命するように言上し、曹操と今後のことを相談したいと思った。

しかし、曹操は、董卓と与することをよしとしていなかったので、姓名を偽り、間道を通って逃亡した。

関所(虎牢関)を出て、中牟を通過するとき、亭長(警察事務を司る)に疑惑を抱かれ、県まで連行された。

当時、掾(えん・県の属官)も、董卓からの手配書を受け取っていたが、眼前の人物が曹操だとは気付いていなかった。

ただ一人、功曹(功労を司る属官)だけは、彼が曹操だと気が付いたが、世の中は乱れており、天下の俊傑を拘留するのはよろしくないと考えた。

そのため県令に進言して彼を釈放させた。

逃亡中、曹操は旧知の間柄である成皋(せいこう)の呂伯奢の家に立ち寄った。

呂伯奢は留守だったが、五人の子は皆、家にいて、曹操を迎え入れてくれた。

しかし曹操は、彼らの用意する食器の音を耳にして、自分を始末しようとしていると思い込み、家人を含む八名を殺害してしまう。

あとで誤解だったと悟り、曹操は悲惨な想いに駆られつつも、「わしが人を裏切ることがあろうとも、他人にわしを裏切らせはしないぞ。」と言い放って去ったという。


曹操は、陳留に辿り着くと、家財を散じて義兵を集め、董卓を滅ぼそうと計画した。

故郷の譙(しょう)に帰っていた父親の曹嵩巨高は、曹操と同行することに難色を示したので、瑯邪(ろうや)へ避難させた。

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