三国志記録 2
袁紹と曹操の若い頃
袁紹本初(えん・しょう・ほんしょ)の袁家は、高祖父の袁安(えん・あん)邵公(しょうこう)以来、四代続いて三公の位にあり、天下に大きな影響力を持っていた。
袁紹は堂々として威厳のある風貌で、身分に拘らず士人に対して下手に出たため、大勢の人が彼の元に身を寄せた。
曹操も若いときに、袁紹と交際を持った。
このときに袁紹の従兄、袁遺伯業(えん・い・はくぎょう)とも知り合ったと思われる。
曹操は袁遺について、「成長してからも、よく学問に励む者は、ただ私と袁伯業とだけだ。」と称えたという。
袁紹は雒陽(らくよう)に隠れ住み、むやみに賓客と交わらず、天下に名の知られた人物でなければ、彼に会うことはできなかった。
しかし、朝廷や三公からお召しがあっても応じなかった。
袁紹は、張邈孟卓(ちょう・ばく・もうたく)、何顒伯求(か・ぎょう・はくきゅう)、許攸子遠(きょ・ゆう・しえん)、伍瓊徳瑜(ご・けい・とくゆ)、呉巨子卿(ご・きょ・しきょう)らの名士と互いに「奔走の友(心を許し合い、危難に駆けつける仲間)」として交わりを結んだ。
何顒伯求は、曹操を見て「漢王朝はまさに滅びようとしている。天下を安んじるのは、必ずやこの人だ。」と評した。
曹操は、宦官の中常侍、張譲(ちょう・じょう)の邸宅にこっそり侵入したが、張譲に気付かれる。
そこで曹操は、持っていた戟を振り回し、土塀を乗り越えて脱出した。
人並はずれた武技で、誰も彼を殺害できなかった。
曹操は、雒陽北部尉に任命される。
尉は県の警察部長。
大きな県は二人、小さな県は一人。
雒陽には、孝廉出身の左尉と右尉が置かれ、禄高四百石。
曹操は尉の役所に入ると、まず四つの門を修理させた。
五色の棒を作らせ、門の左右に、それぞれ十余本ずつ吊り下げ、禁令に違反する者がいると、権勢のある者でも容赦せず、ことごとく棒で殴り殺した。
その後、数か月して、霊帝が目にかけていた小黄門の蹇碩(けん・せき)の叔父が、禁止されている夜間の通行をおこなったので、即座に殺した。
雒陽では夜間外出が跡を断ち、禁令を犯す勇気のある者はなかった。
近習や寵臣たちは彼を憎んだが、付け込む隙がなかった。
そこで一緒になって彼を称揚し、昇進して頓丘の令となったのである。
体のいい左遷であった。
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