マガジンのカバー画像

KIKORIBEATSの余談

50
運営しているクリエイター

2024年5月の記事一覧

出会いは内側

出会いは内側

人は誰かと出会うとき、その相手はもともと自分の中に存在しているんじゃないか、という事を考えていた。相手は出会う前からすでに自分の内側に存在している、と。

人と出会うという行動すべてにおいて、出会った瞬間からその人を潜在的に容認する(無意識のうちに審判を下している)という行動をとっていて、容認する条件というのは、「自分の中にあるあらゆる要素のうちの一部分と強烈に共鳴する」人であるんだろうと思う。世

もっとみる
童謡のような人

童謡のような人

道草食って人生を。
お花が咲いたら写真を。
愛でる。とにかく愛でる。その童心を。おさな心をあたためる。何の変哲もないただの少年であり続ける。どこの組織にも属さない。生きたまんま、生まれたまんまであり続ける。可愛げ。うぶ。やさしさ。そのどれも狂気的な童心であり続ける。
自分自身の行動の起源、母体となるものが生まれた時いや生まれる前くらいから脈々と受け注がれた宙空をただよう春風のような、草いきれのよう

もっとみる
気まま

気まま

気まま。これがなんと大事なことか。気ままに生きるって簡単なようで難しい。難しいようで簡単。歯を食いしばって力を入れれば入れるほど外の世界との壁は厚くなるけど、力を抜いて解き放たれれば壁はなくなる。ただこの「力まない」というのが難しい。
顎関節症を患ってる自分は、この「力まない」の難しさにかなり翻弄されてきた。食いしばらないで1週間平気でいられることもあれば、寝ても起きても常に頬の筋肉がビンビンに張

もっとみる
完璧なんて忘れて

完璧なんて忘れて

ひとつひとつ、積み重ねて、結果を残して、プレッシャーを感じて、それを覚えて、レベルアップして、というマインドにひとつの壁が存在してて、その積み重ねてのブロックを一旦ジェンガ指で押すみたいに崩してあげて、思考のクセをなくして、それがすべてではない世界線の中に自分を見つけていく。自分を見つめていく。心の内なる、もっと奥の、それが自分の内側から発せられたのかすらわからない声に耳を傾けてみる。

学校や親

もっとみる
オラどこさ行くだ

オラどこさ行くだ

世界中を旅した人は夜中目が覚めたときそこが何処の夜だと思うだろうか?一瞬ここがコートジボワールか、サウジアラビアか、ホーチミンか、エクアドルか、ブエノスアイレスか、浜松市か、わからなくなるのではないだろうか。
自分自身にもそういうことがある。野宿した兵庫県たつの市か、静岡の橋の隅っこか、群馬の山奥か、住んでた小平のアパートか、大阪の友達んちか。
蛙の囁き、風のさざめき、みんな親戚みたいで、よほど気

もっとみる
わからなくなってきました

わからなくなってきました

毎日、ほぼ毎日仏壇に手を合わせてる。マッチでろうそくに火を灯し、線香を焦がし、おりんを鳴らす。日々同じことなのに日々変化してる。その変化がめちゃくちゃおもしろい。その変化に気付かさせる為にばーちゃんはおれに手を合わさせようとしてるのか。

なまんだぶなまんだぶ。二階の寝室におって階下の仏間から親父のそんな声が、低く唸るような声が聞こえてくる朝5時半。実際なまんだぶと言ってるかわからないがある時から

もっとみる
理性と野性

理性と野性

人間の内側に本来ある、元来ある「理性と本能」というものを「理性と野性」として置き換えて考えてみる。言葉は違えど個人的には「野性(野生性)」と言った方がわかりやすい。

野性とは子供の頃の剥き出しの感覚、童心、わがまま勝手、なにが正しいとか正しくないとか、時間の感覚、文字の感覚、色の感覚、親と子、自分と他人、男と女。そのすべての境界が区別されておらず曖昧模糊とした感覚の状態のこと。理性とは学習によっ

もっとみる
一生は一枚の絵

一生は一枚の絵

ふと昨晩、思ったことがあって、自分というものが生きてく過程は、死ぬまでにおいて、一枚の絵なんじゃないかということ。

はじめ生まれてから幼少期までは形のわからないぐちゃぐちゃな線、色の概念もない、とにかく思うままのぐちゃぐちゃな線。
それが少しずつ大きくなるにつれて鮮やかな色合いを持ったり、バッキバキの原色を塗りたくったり、やさしい線をひけたり、そこに深い陰影を重ねたり。

ひとり一枚。誰とも被ら

もっとみる