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理性と野性

人間の内側に本来ある、元来ある「理性と本能」というものを「理性と野性」として置き換えて考えてみる。言葉は違えど個人的には「野性(野生性)」と言った方がわかりやすい。

野性とは子供の頃の剥き出しの感覚、童心、わがまま勝手、なにが正しいとか正しくないとか、時間の感覚、文字の感覚、色の感覚、親と子、自分と他人、男と女。そのすべての境界が区別されておらず曖昧模糊とした感覚の状態のこと。理性とは学習によってそれを客観的にコントロールして整理して位置づけして区別する脳の在り方。そのふたつがバランスを取りながら大人はそれぞれ社会の枠組みの中でよりよく生きている。

ただどちらかと言えば「野性」側に重きをおいてというか、むしろそちらを主軸に生きている人と会うと、初対面でパッと会った瞬間から通じ合う。話が早い。説明がいらない。「あっ、どうもこちら側の人間ですね」っていうぐらいに。
それはもうマジで説明不可能で、もうその人!っていう、内なるものが出ちゃってる人はわかる、すぐわかる。だから面白い。だから意識的に誰かに会うとかって行為は必要ないのかもしれない。逆に人に会いたいって行動に移した時は、意識より先に行動が速く進んでいって、その未来で会うであろう人に引き合っていく感覚がある。それがどういう人かはイメージできないけど。
距離感とかタイミング、野性同士の人間だって意識して会おうとかってやらなくてもふいにその人が頭に浮かんだ時に向こうから電話きたりすることもある。っていうかなんだろ、自分的には相手の野性の部分を引き出すのがうまいのかもしれない。なんか相手がうまく取り繕ってかっこつけたりデカい事言ってたとしても、こっちは初手から隙だらけなので、あとは相手次第で来るなら受け入れるしこないならハイサイナラって感じ。来るもの拒まず去る者追わず、で。

来るものはなにかを感じているんだろうし、来ない人は意識の世界、社会的な付き合いの範疇だけにとどまってというか、そっちの方が居心地がいい人なんだろうなって感じがある。これ以上は踏み込みませんよ、っていう。
踏み込んでこられて攻撃されたパターンってたった一回だけかもしれない。ああいや、会社という関係の中ではあるにはあるけど。それ以外のまっさらな人と人、っていう関係の中で攻撃を受けたのは一回だけ。下手すりゃ殺されていたかもしれない体験が一度だけある。今考えてみればそれは相手の嫉妬から来るものだったんだろうけど、その時相手は完全にイノシシとかが怒り狂って目ひん剥いて立ち向かってくる時の感じだった。なにを言っても聞き入れてくれない。こっちの言葉もなにも受け入れてくれない状態。いきさつは置いといて、その時ぼくは街灯以外の灯りのない暗がりで、仰向けに寝ている相手の上に乗って「大丈夫だからね、ほら落ち着いて」と言って頬を撫でた。でも相手は一切こちらの声は聞こえていなかった。目ん玉が完全に獣の目になっていた。あの状態になったら人はコントロール不可能なんだなとその時知った。というか、もはや人というよりそれこそ野性の状態になっていた。

人間が自然物である中で、ほかの動物とはかけ離れた知性を持っているように思ってるのは錯覚で、むしろ人間が言語を持った瞬間から人間は人(ヒト)になり、他の動物より劣った存在になってしまったように思う。

動物は動物同士で言葉はなくともテレパシーを送りあって生命を維持している可能性だってある。人間の愚かしい行ないだってちゃんと解っている可能性だってある。人は知性を持ったが為に、自分で自分を殺めることも知り、猛烈なスピードで死を加速させている。他の動物はそんな事はしない。今日は今日のため、いや今日という概念もなく、時間の感覚もあるのかすらわかんないけど、ただ与えられた天命のもとに生まれては死に、誰の為とも言わず種を繋ぎ、命を繋いでいる。金とか名誉とか言わない。
だからこちとら煩悩もあるし欲求もあるけど、人生をいじくり回さない、余計なことはしない、自然に流れる方向にだけ流れる、それだけをやる。
森の中に入るとめちゃくちゃ性欲が湧き上がってくる。自然とセックスしてるような感覚になる。身体中の毛穴がかっぴらいて、風が皮膚を撫でて、うおおおってなる。遠くに生えているシダの新芽が見える。鹿が一瞬動いたのが見える。音も視界もクリアではっきりと見える。そういう五感が鈍化したのを野性に戻す為に、意識の世界から解放させる為に大麻とか覚醒剤があるのかもしれないけど、自分は一切いらない。必要がない。大麻なくてもあの葉っぱと葉っぱが擦れあった音が、大河の一滴の音が、砂利がコロリと転がった音が、よーく聴こえる。森に勃起する。エナジーを感じる。それは今に始まったことじゃなく、精通した中1の時から。それを誰かに広めるつもりもないし、新興宗教やNPO法人を立ち上げるつもりも一切なく、勝手に森に入って勝手に興奮して勝手に勃起してるだけ。サイコ野郎でもなんでもない。だって誰にも危害を加えてないから。だから本当はアウトプットとして何か音楽で表現したり絵に描いたりしなくても、その自然の中でもう何かが吸収されてなにかが放出されているからオールOK。金もかからんしアロマセラピーだとかヨガとか持続可能性とか謳わなくてもそこにすべてがあって、歴史の縦軸を、そこに何万年も前に火山の噴火によって飛来し落下した大岩が、もんの凄いスピードでその落下した瞬間から現在地点までの時間の流れを、風景を、ビューンって一瞬で全部見せてくれる。あくまでイメージだけど。大岩だけじゃなくその森の生命の生まれては枯れてまた別の命に繋がって生まれては枯れて消えて、、、っていう循環を5万倍速ぐらいで再生して見せてくれる。だからそれに言語化することすら追いつかずひたすら勃起し続ける、っていう(笑)やばいねこりや。阿曽山大噴火っていう(笑)フォッサマグナっていう(笑)ひらけポンキッキっていう(笑)
隆起と沈降と爆発と衝突と消滅を繰り返して繰り返して繰り返して繰り返した先になんかしらん80年くらいの人生がここに始まってまた消えてってっていうことに、なんか意味とか意義とか見出そうとする事すらもはや愚かしいってぐらいの状態。でも暇だからなんか考えたり行動したり人と出会ったり別れたりはするんだけど。
会う人は会うし会わない人は会わない。会わないは合わない。人でも違和感を抱く人ってのがいて、なのにその人のことをなんで自分は違和感を抱くんだろうとかって考えたりする。そういう人は、というかその特定の相手は、やたらと他者と接続しようとして同じノリのコミュニティもしくはワールドを築き上げようとしてて、それはいかにも宗教的で、自分のヴァイブスを持ってすればここに意義を申し立てる人はいないワールドを築き上げてる感があって、それにめちゃくちゃ違和感を感じてる。それだけ求心力があるからこそ出来るんだろうけど、その外側にいる自分からしたら恥ずかしい気持ちになる。ある種の共感性羞恥でもあるんだろうけど。
やっぱり自分が魅力を感じるのは時代の潮目が変わっても勝手にひとりでやってる人で、やれ震災だコロナだっていちいち「こんな時代だから」と周りを鼓舞させ勇気づけようと意識して生み出す行為はどうもきな臭くて嫌になる。その人は野性ぶっててきっとめちゃくちゃ理性人なんだろうから尚更違和感感じるのかもしれない。そういうのは見逃さない。見誤ってるとしても違和感は拭えないと思う。
徒党を組むことが子供の時から大嫌い。集団で同意見、みたいなものにめちゃくちゃ気持ち悪さを感じる。そんなこと起こり得るはずがないんだよそもそも。だから個人は個人なりの、個体なりの動きがあって、出会って離れて、接続と切断を繰り返して生成変化してる状態が一番自然だと思う。より地元に戻ってその感覚に磨きがかかってるというか、「ああやっぱこれでよかったんだな」と少しずつ思えるようになってきた。

木を伐る時、その木は「こいつに伐られるのかー」ってわかってる気がしてる。なにも怪我なく倒した時は「こいつならいいか」と思ってもらえてる感じもある。だから最近木を倒せた時は「ありがとう!」と心の中でだったり口に出して言うようにしている。動物も植物もちゃんとわかってんだよね。だからヘンな、極めて人間的な打算とかが入ってくると怪我したり痛い目みたりする。自然を舐めるとどっかでバチが当たる。

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