KIKORIBEATS

地元宮崎で林業をやりながら自然のことや地域のこと等、日々思ったことを綴っています。

KIKORIBEATS

地元宮崎で林業をやりながら自然のことや地域のこと等、日々思ったことを綴っています。

マガジン

最近の記事

工夫のススメ

目の前にある問題を「解決」という言葉で乗り越えようとするとなんだか重たくて逆にしんどいですよね。 解決じゃなくて「工夫」する、っていう考え方にシフトしていくと、少しだけ軽やかになる。 解決、というとなにか社会的側面(いわゆる公的機関や第三者を挟んだなにか)を感じてしまって個人的にはとても重苦しい。だんだん脳みそがキューっとなってくる。 「工夫」だと道具も使わずお金もかからず今すぐに思いつけばできることなので、めちゃくちゃ楽。要はマインドを切り替えるということですね。むしろ工夫

    • 脇目もふらず

      脇目もふらず、ただひたすらに、自分自身が心底気になっていることに手を出す。手を触れる。実験する。取り組む。研究する。熱中する。思考する。この因と果、つまり原因と結果をそこに生み出し続ける、残し続ける、刻み続ける。そのすべてのアーカイブが何気ないコンビニの買い物のレシートの束をひと綴りにして巻物をつくるように、何気なさの意識と無意識の反復の中でひとつの自分という輪郭を形成する。大気中に自分のゆらぎの残像が立ち現れる。その姿こそがまごうことなき自分の姿であり、そこに寄り添う。

      • 誰かにとっての6月

        「毎月曲を一曲録音してアップしよう」なんてことを考えながら、気づけば6月。先月アップした「余韻」からはや1ヶ月。働いて、漫画を描いて、2度目のサーフィンスクールも終え、畑に撒いたパクチーの種も無事芽を出し、なんだか日が過ぎるのがあっという間だ。 現時点で頼まれているのは、幼なじみと高校のクラスが同じだった女の子の実家の牧場小屋に描く牛のイラストの依頼と、彼女の実家で飼っていて去年亡くなってしまった愛犬と彼女の母親(今度誕生日なのだそう)のイラスト。どちらもまだ進んではいない

        • 田舎の空ってエモい。

          車を走らせる。田舎の基本の移動手段は車。あの車特有の、あのスピード感で見送る空の風景がとてもエモい。エモいという言葉以外ない。18歳ぐらいの時を思い出す。空がどこまでも広くて、地上の空間も密でなく、ポツリポツリと人や建物がいる。それをでかでかと空が見守って包んでいる。あけっぴろげ。空は黙っている。黙認している。昼も夜も。しんとしている。 地上から雲を、青と白のグラデーションを、600キロあまりの重さの軽自動車でなぞっていく。誰よりも独り占め。 18歳は何気ない絶望感が背中

        工夫のススメ

        マガジン

        • KIKORIBEATSの余談
          50本
        • 詩または詞
          8本
        • 思考の吹きこぼれ
          7本

        記事

          ション横の気分

          「今夜飲むならちょうどここ」という気分の時がある。ここ以外ではしっくりこない気分というのが絶対的にある。あるったらある。 脳みそは記憶、気温、湿度、天気、気圧、今いる環境や場所、昨日の出来事、今朝の食事の余韻、さっきまでの会話などなど、あるゆるパターンの細分化によって気分というのは常に変化していて、ふたつと同じ時なんてない。そんな時一番しっくりくる音楽、というと一番わかり易いかもしれないが、それと同じで「今夜飲むならちょうどここ」という夜が存在するのだ。 一度体験した飲み

          ション横の気分

          出会いは内側

          人は誰かと出会うとき、その相手はもともと自分の中に存在しているんじゃないか、という事を考えていた。相手は出会う前からすでに自分の内側に存在している、と。 人と出会うという行動すべてにおいて、出会った瞬間からその人を潜在的に容認する(無意識のうちに審判を下している)という行動をとっていて、容認する条件というのは、「自分の中にあるあらゆる要素のうちの一部分と強烈に共鳴する」人であるんだろうと思う。世間的にわかりやすく言えば趣味とか価値観が合うとかって言い方をするけど、もっと言語

          出会いは内側

          童謡のような人

          道草食って人生を。 お花が咲いたら写真を。 愛でる。とにかく愛でる。その童心を。おさな心をあたためる。何の変哲もないただの少年であり続ける。どこの組織にも属さない。生きたまんま、生まれたまんまであり続ける。可愛げ。うぶ。やさしさ。そのどれも狂気的な童心であり続ける。 自分自身の行動の起源、母体となるものが生まれた時いや生まれる前くらいから脈々と受け注がれた宙空をただよう春風のような、草いきれのような、斜陽のような、木漏れ日のような、いかにも日本的な気候の熱とジメッとした湿度を

          童謡のような人

          気まま

          気まま。これがなんと大事なことか。気ままに生きるって簡単なようで難しい。難しいようで簡単。歯を食いしばって力を入れれば入れるほど外の世界との壁は厚くなるけど、力を抜いて解き放たれれば壁はなくなる。ただこの「力まない」というのが難しい。 顎関節症を患ってる自分は、この「力まない」の難しさにかなり翻弄されてきた。食いしばらないで1週間平気でいられることもあれば、寝ても起きても常に頬の筋肉がビンビンに張って、どうしたって緩まない事が多々ある。意識すればするほどそれは逆効果なんだけど

          完璧なんて忘れて

          ひとつひとつ、積み重ねて、結果を残して、プレッシャーを感じて、それを覚えて、レベルアップして、というマインドにひとつの壁が存在してて、その積み重ねてのブロックを一旦ジェンガ指で押すみたいに崩してあげて、思考のクセをなくして、それがすべてではない世界線の中に自分を見つけていく。自分を見つめていく。心の内なる、もっと奥の、それが自分の内側から発せられたのかすらわからない声に耳を傾けてみる。 学校や親のしつけは基本、軍国ぐらいからの縦社会の中で脈々と植え付けられた「こうあらねばな

          完璧なんて忘れて

          オラどこさ行くだ

          世界中を旅した人は夜中目が覚めたときそこが何処の夜だと思うだろうか?一瞬ここがコートジボワールか、サウジアラビアか、ホーチミンか、エクアドルか、ブエノスアイレスか、浜松市か、わからなくなるのではないだろうか。 自分自身にもそういうことがある。野宿した兵庫県たつの市か、静岡の橋の隅っこか、群馬の山奥か、住んでた小平のアパートか、大阪の友達んちか。 蛙の囁き、風のさざめき、みんな親戚みたいで、よほど気温や気候に大差ない限り、そこがどこであろうと目をつぶれば何処でもなくなってしまう

          オラどこさ行くだ

          わからなくなってきました

          毎日、ほぼ毎日仏壇に手を合わせてる。マッチでろうそくに火を灯し、線香を焦がし、おりんを鳴らす。日々同じことなのに日々変化してる。その変化がめちゃくちゃおもしろい。その変化に気付かさせる為にばーちゃんはおれに手を合わさせようとしてるのか。 なまんだぶなまんだぶ。二階の寝室におって階下の仏間から親父のそんな声が、低く唸るような声が聞こえてくる朝5時半。実際なまんだぶと言ってるかわからないがある時からそれに気づき、自分も真似してみることにした。 なまんだぶなまんだぶなまんだぶな

          わからなくなってきました

          理性と野性

          人間の内側に本来ある、元来ある「理性と本能」というものを「理性と野性」として置き換えて考えてみる。言葉は違えど個人的には「野性(野生性)」と言った方がわかりやすい。 野性とは子供の頃の剥き出しの感覚、童心、わがまま勝手、なにが正しいとか正しくないとか、時間の感覚、文字の感覚、色の感覚、親と子、自分と他人、男と女。そのすべての境界が区別されておらず曖昧模糊とした感覚の状態のこと。理性とは学習によってそれを客観的にコントロールして整理して位置づけして区別する脳の在り方。そのふた

          理性と野性

          一生は一枚の絵

          ふと昨晩、思ったことがあって、自分というものが生きてく過程は、死ぬまでにおいて、一枚の絵なんじゃないかということ。 はじめ生まれてから幼少期までは形のわからないぐちゃぐちゃな線、色の概念もない、とにかく思うままのぐちゃぐちゃな線。 それが少しずつ大きくなるにつれて鮮やかな色合いを持ったり、バッキバキの原色を塗りたくったり、やさしい線をひけたり、そこに深い陰影を重ねたり。 ひとり一枚。誰とも被らない一枚の絵。そういう視点でいくと、「今はモノトーンでしか描けない時期なんだな」

          一生は一枚の絵

          ゆらぎの下降線

          創作を生み出す根源にあるのは人間の心のゆらぎ、特にそのゆらぎの波の下降線に差し掛かる所にこそあるように思う。ズーンと下がっている時、このまま平常に戻ることなどあるのかと不安に苛まれ呼吸が浅くなる。思考のスピードがゆっくりになる。思考が停止するのではなく、脳が無意識にバランスを取るようにスピードを遅めているかのような。それを「やる気が起こらない」とか「なにも考えたくない」などと口にするけども、実は新しい何かが生まれる際の変化の証なのかもしれない。それは意識から脱却して一時的に野

          ゆらぎの下降線

          自分をコンテンツ化しない

          自分をコンテンツ化しない。別に何者にもならなくていい。 MOROHAのアフロは「三文銭」のライブの中で「ぶっ飛んでなくなっていいぜ、いかれてなくたっていいぜ 普通でいいんだ 真っ当は真っ当なりに お前を全うしろよ」という。 絵を描いたから絵描きとか、音楽活動してるからミュージシャンとか、YouTubeに動画上げたからYouTuberとか、詩を書いたから詩人とか、そんなんじゃなくて、その手前に見つけたであろうなにかが生まれた時の感情ですべてが始まったと同時にすべてが終わっている

          自分をコンテンツ化しない

          自分マニア

          書くマニア、見るマニア、動くマニア、知るマニア、聞くマニア、寝るマニア、自分マニア。 とにかく書く。日記でもなんでも。思いついたこと。今日スーパーで買うものリスト。怒り。住所氏名。知り合いの名前。友達の名前。つぶやき。note。食べたもの食べたいものやりたいことやってみたこと。スマホで打ち込んだ文章も手書きのメモも日記もレポートも手紙もラブレターもこの現在地点までの幾年月重ねられた文字が自分の足元から黒塗りの影となりこの体を支えている。この言葉が、文字が、自分を新しいどこか

          自分マニア