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童謡のような人

道草食って人生を。
お花が咲いたら写真を。
愛でる。とにかく愛でる。その童心を。おさな心をあたためる。何の変哲もないただの少年であり続ける。どこの組織にも属さない。生きたまんま、生まれたまんまであり続ける。可愛げ。うぶ。やさしさ。そのどれも狂気的な童心であり続ける。
自分自身の行動の起源、母体となるものが生まれた時いや生まれる前くらいから脈々と受け注がれた宙空をただよう春風のような、草いきれのような、斜陽のような、木漏れ日のような、いかにも日本的な気候の熱とジメッとした湿度を帯びた空気に漂い、かつ閉鎖↔流動の反復で循環していく心、おさな心。

成長ではなくただただ変化を続け新しい綺羅びやかな光のままに存在している。たぶん命終えたそのあとも。

じーちゃんが亡くなった時、葬式の斎場の外で幼なじみと煙草をふかしていたあの時、明らかに斎場の入り口であろう側から飛んできた一匹のホタルが、ぼくらの目の前で空中で一瞬だけ揺らめいて遠くへ消えていった。あれは明らかにじーちゃんだった。あまりにもじーちゃん過ぎて幼なじみと笑った。
そんな空気で終わった後も消えないで春風になり、時にはトンボになり、時には西陽に照らされた塵となりそこに漂い続ける。誰にも気づかれないまま。

裏側で反転した世界の奥の方でもうひとりの自分が同時進行でどこかへ向かって歩(あゆみ)を進めている。たまに一瞬だけフラッシュバック的にその自分に出くわす。年齢すらも持たない自分がこの世の時間軸とはまた別の流れの中で自転している。ゆらめいている。命という換えの効かない存在?いや自分という存在はどこかで複数となり漂っている、常に。それは時々ふとなんとなく、気になって借りた本の活字の中でたった一行だけの文章の中に現れたりする。文章の中に自分を見つける。感動でも感傷でもない、ユニゾンのような、ディレイのような、折り重なった、全く同じでもない同類項のようなものがそこにある。
あらゆる事象が他人事ではなく、すべては呼応している。ただすべての事象を吸収することなど不可能で、「自分」という個体があることで限定しているだけで。限定された無限。有限の中にある無限。だから何にでもなれる。どこへでも行ける。

決められた道、限られた道。その限定的な空間でなく意識とはかけ離れた多次元的な空間の中で毛細血管のように網目状に無意識になにかとなにかが常に勝手に接続切断を繰り返していて、そこに目を見張ってゆるやかなカーブを描く。出会いは点と点のようで、実はその出会うまでの「プロセス」がもう出会いなのだ。そこに向かっているというだけですでに出会っているも同じ。だから明らかな変化や形付けられた出会いは途中のチェックポイントのようなもので、どこにそのチェックポイントが設けられているかすらわからないまま、はじまりの揺れを生み出すその心をあたためていく。
はじまりのおさな心がすべての出会いに繋がっている。
だから未来のチェックポイントに気付けないのは仕方がないと、無駄に不安がる必要すらなく、とにかく心の有り様を信じて変化するしかない。現状をよりよく好転させていくにはまずその心の有り様を改め直さなくちゃいけない。マイナスに心が振れれば事態はマイナスな方向にしか動いていかない。チープなドラマのようにロマンチックかつ大胆不敵にこの修羅の闇を甘美な世界と捉えて気ままに楽しく生きていくしかない。理解の壁を、越えるんじゃなく溶きほぐしてなくして、その向こうにある不可思議でやさしい光に向かっていく。

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