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出会いは内側

人は誰かと出会うとき、その相手はもともと自分の中に存在しているんじゃないか、という事を考えていた。相手は出会う前からすでに自分の内側に存在している、と。

人と出会うという行動すべてにおいて、出会った瞬間からその人を潜在的に容認する(無意識のうちに審判を下している)という行動をとっていて、容認する条件というのは、「自分の中にあるあらゆる要素のうちの一部分と強烈に共鳴する」人であるんだろうと思う。世間的にわかりやすく言えば趣味とか価値観が合うとかって言い方をするけど、もっと言語化できない深部で求めているもしくは足りない部分を全力で受け入れてくれる一部分、それを持っている存在っていうのを瞬時に判断している気がする。
ラブストーリーは突然ではなく、どこかである種の必然性を帯びているんだろうと思う。ぼく自身それだけの交友関係や多くのデータファイルがあるわけではないのでそこまで強く言い切れないのだけど、少なくとも、出会ってそれなりに同じ時間を過ごした以上は、どこかしら自分の内側にある要素と共鳴してるんだろうなって確信めいたものがある。でなければそもそも1秒たりとも続かないと思う。
じゃあなぜ出会った者同士が別れてしまうのか。
それはひとつ言えるのは時間の経過によって互いが変化し続ける存在であるから。互いの変化のスピードは当然それぞれ違って、共鳴する部分、その時求めてた部分が瞬間的に満たされて、自分ひとりでその音を鳴らせたり成立させたりできる状態に変化していくと相手は必要なくなるんじゃないかなと。
決して欠落してる部分を埋め合わせているわけでもないけど、時間の経過とともに共振する必要がなくなるってことはあると思う。
ユニゾンの心地よさって全く同じ音を発してるようで少しズレてて、半音よりもっと細かい、32分の1音くらいズレてる感じがチョー気持ちいい、みたいな。それが生活を共にすることで訓練されて、やがてまったく同じ音を出せるようになると「いやもう同じ音だしそれ共振(ユニゾン)ですらないし」ってことになって必要なくなるのかも。
あとは距離や役割の問題で、近すぎると逆にノイズになったり、関係性を深めていくことで違う音を鳴らさなくちゃいけないという事になって、もともと初期のビートルズみたいな最低限の音で構成されていたものが、ストリング入れましょうパーカッション入れましょう、ってことになって、だんだん元の状態がわからなくなってしまうんじゃないかな。
一体ぼくらはどこから来て、どこを目指してたんだっけ、ってな状態。
まったく歯車の形式やビートスタイルの違う人とはそもそも出会わないように出来ていて、もちろんすれ違ったりはするけども、パッと目があったり「なんか気になる」っていう事自体がもう出会いになっている。それは意識とは別の部分で無意識に動物的嗅覚が理解を越えるスピードで働いていて惹かれ合う能力を察知しているんだろうと思う。その先で関係性を深めるだどうだって事は二の次で、その相手ともし深くなろうが浅はかであろうが、それは自分にとってちょうどいい補助輪的な部分になってくれたり、モーターになったり、相手との関係性によって求める部分が大きく変わる気がする。
音楽で言えばちょっとうっすらそこでハイハット鳴らしてくれればそれで十分、的な相手もいるだろうし。

正直今まで出会ってきた人の中でも「ここは絶対的に合わない」ってのはもちろんある。それは先述したように、共鳴共振し合う部分だけの強さであって、それ以外の部分をもすら整合性をとろうとする事自体が野暮というか、そんな事できる訳ないじゃんって言うくらいに人と人は違うので、その初歩的な誤解をまずは解いてあげないと、いつまで経っても誰ともうまくは行かない。他者に全体性を求めるだなんて、それもう自分でいいじゃん!(笑)ってことになっちゃう。

なんでこんな事を書きたくなったかっていうと、そもそもが人と人が出会うきっかけは価値観や趣味が合うってとこからだいたいは始まっていて、たとえばマッチングアプリだとそれきっかけで出会うことが多いのだけど、実は本当に求めてる部分はそことは違くて、もっと深部の波長だとかビート感覚だとかリズム感が似てる人だったりして、いわゆる「一緒にいると安心する」ってのは同じビートを刻める相手であるってとこがでかいと思う。
それを察知する能力がもともと人間には備わっていると思っていて、その能力さえちゃんと磨いて研ぎ澄ませてたら間違った判断なんてする必要ないんじゃないだろうか。なあんてことをぼんやり考えた。


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