交際0日で泣きながらカルティエを買って、ひざまずいてプロポーズ。
「あたしと付き合うってことは、
どういうことか分かってるよね?」
札幌市内のとあるお店で、のちに妻となる彼女から真顔でそう言われたとき、私は心外であった。
営業事務として4歳上の敏腕女性を採用したはずだったのに、採用から6ヶ月後、私は彼女に愛の告白をすることになり、返す刀で言われたのが冒頭のセリフである。
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心外であった。
「あたしと付き合うってことは、
どういうことか分かってるよね?」
当時の私は28歳、彼女は32歳。
そう言われたら頭に浮かぶのは、漢字2文字。
すなわち「結婚」である。
分かってるに決まってる。
32歳で新たな恋愛をするということは、それはつまり、結婚を視野に入れた交際である。
(…俺を試しにきてるな?)
だから、間髪入れずに言った。
「結婚でしょ? いいよ? しよう。
今からここを出て、区役所行こうか」
…
当時在籍していたベンチャー企業(自称)で管理職だった私は、彼女を営業事務として迎え入れた。北海道支社の人員はわずかに5名。
約6ヶ月間、密度の濃い時間を過ごし、彼女の仕事の進め方、気立ての良さ、物事に対する視座、時折飛びだすユーモアなど、つまりは彼女の性格についてはひと通り理解していた。
恋愛関係は知らない。
そんなものはどうでもいい。
結婚?
いいよ、やってやろうじゃないか。
28歳、ちょうどしたいと思ってたところだ。
28歳の私が即座にそう言ったら、
32歳の彼女はどんな反応をしたか。
「あわわわわわわわわわわわわわわわ」
「え、え、え?」
「結婚だよ?」
私は思った。
「え! け、結婚だよ?」
「うん、結婚でしょ? いいよ」
「え、え、結婚だよ?」
「結婚でしょ? いいよ?」
「え、え、でも、結婚だよ?」
「結婚でしょ? いいよ? 結婚しよう」
「え? 今から?」
「今からでもいいけど、さすがにムリか」
「…それはムリ」
…
と、いうわけで、いつ結婚するか日取りを決めた。こういうのはあいまいにしてはいけない。具体性を帯びて初めて、ことが進む。
全国の同棲中の男女に告ぐ。
入籍日をとっとと決めよ。
夜の献立、週末旅行のホテルよりも先に
決めるべきものは入籍日である。
「本当に結婚相手はこの人でいいのか?」
うるさい。とっとと結婚せよ。
考えるだけムダである。諦めよ。
「で、でも…そんな決断」
決断せよ。
時間がないという焦燥感を
伝えられない恋人に思いを馳せよ。
結婚は、その日から1年後にすることにした。
が、妻が母に相談したところ、私が鼻をほじっている間に結婚予定日は8ヶ月後に縮み、6ヶ月後に縮み、結局、その日から4ヶ月後に決まった。
妻の母いわく、
「相手が心変わりする前に、早くしなさい!」
だったらしい。
「復活する前に息の根を止めろ!」に似てる。
縁起のいい日を探して、理由をつけて、結局4ヶ月後に結婚することにした。私はといえば、特にこだわりはなかったから、言われるがまま。内心は半ニヤケであった。
時を最初に戻そう。
(…チクタク…チクタク)
…
……
………
「結婚でしょ? いいよ? 結婚しよう」
「え? 今から?」
「今からでもいいけど、さすがにムリか」
「それはムリ」
私の内心は、やっぱり勝ったと思っている。
(いや、勝ち負けじゃないから)
こんなパワー系の質問をされたところで、私の心は、さざれ石のごとく動かない。男女の会話における主導権をそれで取ったつもりか!
フハハハハハハハハッ!
甘い! 甘いぞ!
と、いうわけで
主導権をさらに取り返すべく…
いや、ウソ。
本当は彼女が結婚に焦ってることを分かってた。だから、安心して欲しくて言った。
「じゃあ、今から合鍵作りに行って、
婚約指輪買いに行こうか」
「え! 本気?」
「お互い安心できるし、
こういうのはスピード勝負じゃん」
私たち2人はその足でまず、カギ屋さんに行った。札幌市内の古ぼけたお店のおじさんに「これの合鍵お願いしまーす」と言って渡したら「はいよ〜」と言って作業に取り掛かる。
合鍵はすぐにできた。
てってれ〜。
「まずはこれで合鍵クリア」
「…クリアだね」
「じゃあ、大丸行こう」
「だ、大丸…」
「次は婚約指輪。
結婚指輪は今度でいいよね」
「…ま、まぁ」
札幌の大丸は、札幌駅の隣にそびえ立っている。どんな宝飾店が入っているかは、想像がつくはず。
「ハリーウィンストンはないから、北川景子にはなれないけど、ティファニーとカルティエは札幌の大丸にもあるじゃん」
「ティ、ティファニー…、カルティエ…」
「札幌ならこの2つだよね」
合鍵を作った私たちは、
ティファニーとカルティエへ行った。
よくある話、指輪を男女2人で買いに行こうとすると、あそこの店員さんたちは「奥様」「旦那様」「おめでとうございます」を連呼する。
「奥様」「旦那様」「おめでとうございます」は三種の神器に限りなく近い。3つのキラーワードを巧みに使われて、私も妻も心がふわふわする思いだった。
「あれ、俺たち結婚すんの?」
これである。
うまーくできてる。
まずはティファニー。
彼女が指輪をしげしげと眺める。
何個もつける。
何かが違うらしい。
カルティエに行く。
彼女が指輪をしげしげと眺める。
何個もつける。
どれが似合うか一緒に真剣に見極める。
「こ、これがいい」
「うん、それがいいね」
店員さんは、ニコニコしてる。
が、値段を見てビックリした。
「え、こんな高いの?」
婚約指輪の相場を知らなかった。
そうか、3万円とかではないのか。ないよ。
「え、選び直すわ」
選び直した。つまりはグレードを下げた。
さすがにヤバいやつはヤバい。
店員さんにやっと予算を伝えて、
その範囲内で満足できるものを選んだ。
が、クソ高い。
ダイヤのきらめきだ。
「お名前を掘れますが、どうされますか?」
「名前ですか。
それをやると今日の受け取りはムリですか?」
「数日かかりますね」
「そうですか、んー、どうする?
名前ってそんなに重要?」
「名前、いらない」
意見が一致した。
名前なんかいらない。
とにかく早く手元に指輪が欲しい。
結婚に必要なことは2つあると思う。
「ノリ」と「勢い」だ。
「じゃあ、名前は不要です」
「あ、は、はい。
ではお支払いは、いかがいたしますか?」
「カードは使えますか?
100回払いとか、いけますか?」
「100回はムリですね」
「ですよね」
高額な物をカードで買う時に私が使う、渾身の100回払いジョークがカルティエで炸裂した。
カードを切ろうとした。が、切れなかった。
限度額オーバーである。
そんなプラチナ会員とかではない。
お店は間も無く閉店だった。
「じゃ、現金でお願いします」
妻は「えっ!?」と言った。
「ちょっとおろしてくる。
時間は間に合いますかね」
「は、はい」
ATMに飛んだ。
内心は、こう思ってた。
大学を除籍になって、必死に働いた。
世のため人のためを是として、身を粉にして働いてきたその対価で得た、なけなしのお金である。
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多重影分身した福沢諭吉を握りしめて
カルティエに戻った。
「だ、大丈夫なの?」
「こ、こんな時のために、おばあちゃんから貰ったお金があるから大丈夫(ヌハハ)」
ウソだ。
そんな裕福な家庭ではない。
むしろ実家は貧乏だった。
電気もよく止まった。
私は4人兄妹の長男だったから、いろんなものを我慢した。友だちがゲームボーイのポケモンで遊ぶ中、オリジナルのカードゲームを作って「ナハハ」と遊んでた。
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このお金は、私が深夜まで泣きながら働いて手にしたお金だ。たくさんの人たちの問題を解決して、感謝されて手にしたお金だ。
大学を除籍になってるから、誰かが遊んでいる時も、人の何倍も勉強して手にしたお金だ。扁桃腺を真っ赤に腫らしながら、大勢の前でプレゼンしたあと倒れて、やっと手にした、そういうお金だ。
それを捧げる価値が、彼女にあるか?
知らん。
そんなものは後で振り返れば分かる。
生活は?
知らん。なんとかなる。
俺は今を生きてる。
どうにでもなる。なんとかなる。
…
そうして、お支払いを済ませた。
婚約指輪をゲットだ。
てれ〜ん。
家に帰った。
さっき作った合鍵を試した。あいた。
「あいたねぇ」と2人でニコニコした。
リビングに行って、カルティエの箱を開けた。
あの厳かな箱。いかにもな箱。
パカっと開いて、指輪を取り出す。
ベタだけど、ひざまずいて指輪をはめてあげた。
ディズニーランドとか、高級リゾートホテルでプロポーズしたわけではない。普通のリビングだ。
彼女の左手の薬指はガタガタ震えてた。
あの光景は忘れない。
内心思った。
まぁ、いっか、と思った。
彼女にも言った。
「再来月くらいになって電気止まったら謝るわ」
すると彼女は言った。
「別にいいよ」
うん、やっぱりいい人を妻に迎えられた。
電気は止まらなかったし、私たち2人も止まらなかった。その4ヶ月後、彼女は妻になり、私たちは本当に結婚した。友だちには事後報告した。
みんなから、
「え?どういうこと?」
と聞かれたけれど、こういうこと。
結婚式は恥ずかしいからやらなかったけど、結婚写真は撮った。超安い写真館を2人で探して。6箇所くらいまわって、はにかんで撮った。
「スーツの着方はこれであってますか?」と何度も確認したが、そんなの気にしなくていい、と言われたので黙った。
…
「そんなに早く結婚して後悔は?」
たまに聞かれる。
後悔はしてない。
だって、毎日たのしいから。
後ろを振り返らなくたって、あの価値は分かる。
超安い写真館で撮った結婚写真は、今でも私たち夫婦のスマートフォンの待ち受け画像である。
写真の中の妻の薬指には、あのとき心で泣きながら買った指輪が、控えめに輝いている。
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