見出し画像

過去記事から継続について哲学してみる

ちょいちょい書いていますが、自分の過去記事は、何度読んでも転げまわって壁に頭を打ち付けたくなる気分になりませんか?

…え?あなたもそうなんですか⁉(*'▽')

奇遇ですね☆

それじゃあ一緒にのたうち回りましょうか‼

\(゜ロ\)うひゃひゃひゃひゃ~~っ‼(/ロ゜)/

…。

ハイ、こんな現実逃避をしても、何も身になりません(笑)。

自分の恥ずかしいと思うような経験にこそ、学びの種が隠れているのだと思います。

ということで、今回は「過去記事からいろいろ考えてみよう」という内容で書いていこうと思います。

最後までお付き合いいただけると幸いです。

女性・女の子・思考・考える・思案する・木にもたれかかる・物憂げな

ーーーーーーーーーー

どんなに考え抜いて時間をかけた記事でも、時が経てば改善点は見えてくるはずです。

…正直なところ、私はそういった感覚に鈍感なのですが、毎日記事を投稿し、多くの方の優れた記事を読ませていただくことで、ようやく、感じることができるといったところです( ̄▽ ̄;)。

「(; ・`д・´)…私は過去を振り返らない人間なのだ‼」

…そう思う方も、せっかくデータとして蓄積されているのですから、ぜひ読み返してみてください。

(/ω\)…恥ずかしい、という感覚を覚えると同時に、きっと愛おしい感覚もあると思うのです。

自分の過去を振り返る行為とは、心にさまざまな負荷を与えるきっかけになると同時に、心を整理し、少しだけ心の耐性を上げてくれると思います。

そもそも論ですが、なぜ、再三再四にわたって「過去記事を読み返そう」だとか「過去記事には成長の種が眠っている」などと、私が繰り返し述べているのかというと、noteには「継続すること」自体の意味を考えるヒントが眠っていると思うからです。

女性・思考・困難・吹き出し・本・悩む・頬杖を突く

ーーーーーーーーーー

継続することが大切だと多くの方は言います。

そして、同時に継続することは難しいとも言います。

では、なぜ大切だと感じているにもかかわらず、困難だと思うのでしょうか?

個人的な意見ですが、継続することを特別視しているからではないでしょうか?

あるいは、継続することの困難さを、自ら作りあげているのではないでしょうか?

実は私自身も、ある程度noteを継続できたときに「今までいろいろやってきたけど、ちゃんと継続できたことがなかったな…」と思い、noteで書き続ける意味を特別なものにしようとしていました。

しかし、それは間違いです。

継続することは、実はもっと当たり前で、誰しも自然に行っていることだと私は思うのです。

これは、過去記事を通して私が感じたことです。

辞書・本・開く・辞書を引く

ーーーーーーーーーー

日本語には「一念発起」という言葉があります。

あることを成し遂げようと決心する。
(デジタル大辞泉より)

「初志貫徹」という言葉もあります。

当初の志や思いを、最後まで貫き徹すこと。初志を貫徹すること。「初志を貫徹する」と使われることも多い。
(実用日本語表現辞典より)

多くの場合、人は新しいことを始めるにあたり、行動の意味づけを行います。

これには、さまざまな心理が働いているのだと思います。

「何かを始めるからには、自分の求める結果を手にする必要がある」

「この行動は、私にとって必要なことだ」

「始めたからには、成果を得るまでは終えられない」

…他にもあると思いますが、このように大なり小なりの葛藤を経て、人は行動を起こすのだと仮定すると、継続することを特別視する意味が垣間見えるのではないでしょうか。

つまり過程よりも結果を重視することが根幹にあるということです。

女性・眺める・街並み・思考・金髪・腰掛ける・長袖・物思いに耽る

ーーーーーーーーーー

別の視点からも考えてみましょう。

現代社会は技術の進歩によって、多くの恩恵を私たちに与えてくれています。

私たちは「選ぶ権利」を手にしたと同時に「選ぶという行為に係るストレス」も手にしたと言えるでしょう。

誰しも、ストレスを抱えるのは避けたいものです。

ですから、人は必然的に好きなモノに囲まれていたいという欲求を持つようになります。

しかし、人の好きなモノは変化します。

同じ価値観、同じ感覚を長期にわたって持ち続けることは、ほとんどないでしょう。

つまり、「好き」を基準に行為を選択する傾向にある人にとって、継続することは相当にムリがあるのではないでしょうか?

このような傾向の人が増えた結果、継続することの困難さが増していると考えると、技術の発展は人の継続性を阻害する、といったことも言えるのかもしれませんね。

砂時計・ピンクの砂・時間・感覚・継続

ーーーーーーーーーー

継続とは元来、特別なことではなかったでしょう。

ですが、私たち自身が困難なものにしていると思うのです。

それは、ある意味では技術の進歩の功罪と言えるでしょうし、言葉と文化のギャップが生じていることを認識することかもしれません。

継続自体に意味はありません。

意味づけしているのは、私たちの心が自分の行動に正当性を持たせようとしていると私は考えます。

なぜなら、多くの選択に囲まれる私たちは、よりよい生活を獲得するために、効率的かつ合理的に時間を使う必要があり、なおかつ、いかに快適でストレスを感じない暮らしを獲得するかに注力しているからです。

結果として、自分の行動に生産性を感じなくなった途端に、その行動にはムダというレッテルが張られ、生活行動から除外されます。

一つの行動を継続することの価値よりも、総合的な効率を求める必要性の方が、価値があると考えるからです。

しかし、最近では再び、ムダの中に価値を見出そうとする流れが現れてきています。

継続とは何なのか?

ムダなことなのか、必要なことなのか?

その答えは人によって異なるでしょうが、このような思考の渦に身を任せる時間は、私にとっては、自らの生産性を高めるには必要であり、このきっかけを与えてくれる継続という行為もまた必要だと思っています。

あなたはどう考えるでしょうか?

ーーーーーーーーーー

今回は、noteの過去記事を振り返りながら、継続することについて考えてみました。

最後までお読みいただきありがとうございました。

投稿は以上です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?