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ぼくたちはなにで出来ているのか

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2020年6月の記事一覧

#041_ぼくらはときどき「肩こりがツラいからたっぷり休む」という無敵のソリューションを忘れます。

#041_ぼくらはときどき「肩こりがツラいからたっぷり休む」という無敵のソリューションを忘れます。

ヨガを続けると健康になります。
病気ではないという意味の健康ではなくて、なにをしていても身体が気持ちいいというレベルの健康です。

ぼくらはときどき「肩こりがツラいからたっぷり休む」という無敵のソリューションを忘れます。進行性の病気ではないので、治りたがっている身体に治るための時間をリザーブしてあげると、もっとも完全な形で課題が解決します。

職場では「肩こりくらいで根をあげない」ことが美徳だし、

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#040_だれも自分を待っていないし、評価もしていない、静かな時間。

#040_だれも自分を待っていないし、評価もしていない、静かな時間。

「ゆっくり動いて静かに座ります」

「物音を立てないという静けさではなく、自分の中が静かな状態です」

という導入でヨガのセッションが始まります。
だれも自分を待っていないし、評価もしていない、とんでもなく穏やかな時間は、将来のどこかの地点で、自我への執着の放棄につながります。

#039_自分の部屋のニオイを知るのはかなり困難。

#039_自分の部屋のニオイを知るのはかなり困難。

自分の部屋のニオイを知るのはかなり困難です。
長期の旅行から帰ってきて「長期の旅行に行くと部屋ってニオイがするようになるのか!」と驚いたりしますが(笑)、ずっとのそのニオイのなかで暮らしていたのでわからなかっただけ。

旅行に行かずにニオイを知る方法は2つあります。
2つとも実践すると知ることができます。

ひとつめは、
「昨日との違いに意識を向ける」

ふたつめは、
「繊細な違いに気づくような、

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#038_だれかがあなたのことをキライなとき、あなたはそのことを苦痛に感じる理由がありません

#038_だれかがあなたのことをキライなとき、あなたはそのことを苦痛に感じる理由がありません

「他人を理解することはできない」
「他人の感情や快楽や苦痛や幸福や不幸は、想像の産物に過ぎない」
「なぜならぼくらは自分が体験したことしか知らないから」
という構造に気づき、これを前提として固定すると、
「目の前にいるだれかは、自分の投影である」
という事実と向き合うことになります。

AさんがBさんのことを好きであるとき、あるいはキライであるとき、その原因はBさんではなくAさんの中にあります。

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#037_「でも、理解しあってるよ」と、ぼくらはナイーブに感じます。

#037_「でも、理解しあってるよ」と、ぼくらはナイーブに感じます。

人間存在とか、世界の成り立ちとか、つまり人文科学なんでもということですが、すべての科学的考察の前提になるのは「他人を理解することはできない」ということです。

精密に言うと「他人の意識や身体に起こっている現象について、自分が体験したことのある現象から似ているものを選んで『つまりこれだよね』とイメージすることしかできない」です。大学の文学や心理学の一般教養の授業で習います。

「でも、理解しあってる

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#036_それぞれ、得られるものはなんだろう

#036_それぞれ、得られるものはなんだろう

チカラいっぱい前屈するとカラダは目一杯曲がりますが、そうっと曲げていって絶妙なところでチカラを抜くと自分と向き合うことができます。

手に入れたいものはなんだろう。
死ぬ日にやりたいのはどっちだろう。

#035_ひとつめを手に入れたらふたつめもほしくなるもの

#035_ひとつめを手に入れたらふたつめもほしくなるもの

「意外に思われたかもしれませんが、仏教というのは、幸福な状態を実現するために生まれた宗教ではなく、本当の心の安寧のためには、安楽のためには、なにかを実現したいという、その欲求を放棄する、捨てる、そこに初めて本当の安寧、安楽が訪れるという、非常にユニークな、当時としては非常に画期的な教えに基づく宗教なんですね」
_佐々木閑「仏教哲学の世界観」1-(10)    https://youtu.be/s3

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#034_人はいろいろ捨てて出家して僧侶になりますが、名前も捨てます。

#034_人はいろいろ捨てて出家して僧侶になりますが、名前も捨てます。

人はいろいろいろいろ捨てて出家して僧侶になりますが、名前も捨てます。

名前は人間関係を規定し、規定された人間関係は、他者から見た自分という構造的な自我への依存対象を再生するからです。

赤根彰子先生(「こころのヨーガ」の著者)が、セッションでかならず「自分がだれかということも、いったんわすれてヨガを」と言っていたのをおもいだします。

ヨガセッションではだれかに評価されるということがありません。

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#033_「トラウマをヨーガで克服する」という本の話

#033_「トラウマをヨーガで克服する」という本の話

ぼくも「トラウマをヨーガで克服する」を読んで衝撃を受けたひとりで、そんなことが出来るならヨガをやめるという選択肢は一生ないなあと気づいたひとりです。

カラダの苦悩もココロの苦悩も、多かれ少なかれぼくら全員に訪れますが、身体の苦悩は治そうとするけれども、もうひとつのほうは治そうとしたほうがいいかどうかを判断する判断が病んでいたり、治療の選択肢が極端に少なかったり、傷を負ったこと自体がだれにも言えな

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#032_一日中クラスをやるとヨガマットの上に5時間くらいいることになります。

#032_一日中クラスをやるとヨガマットの上に5時間くらいいることになります。

ややゆったりめに感染防止営業自粛していたのですが、やっとヨガクラスを再開しました。

自宅がヨガルームで自分と家族が講師なので、クラス数を増やしても、あるいはクラスあたりの生徒数を制限しても、固定費が変わらないので思うがままにクオリティを担保することが可能です。

一日中クラスをやるとヨガマットの上に5時間くらいいることになります。

呼吸をじゃまする思考がなくなり、判断に感情が混ざらなくなり、い

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#031_まぶたを閉じている間も、ぼくらはなにかを見ようとしていて、そのことに気づいていません。

#031_まぶたを閉じている間も、ぼくらはなにかを見ようとしていて、そのことに気づいていません。

こすり合わせた手のひらをおわんの形にしてそれぞれ左右の目にかぶせて、手のひらの温かさを感じる、というのをとくに日本のヨガ講師はよくやります。

「目を温める」という方もいらっしゃいますが、これは目にリラックスをもたらすためのもの。

まぶたを開いているとき、ぼくらはずっとなにかを見ています。なにかに目の焦点を合わせようとして、目の筋肉を緊張させています。
まぶたを閉じている間も、ぼくらはなにかを見

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#030_脳から身体に「ゆっくり呼吸せよ」と指令を出すとあっという間に酸素が

#030_脳から身体に「ゆっくり呼吸せよ」と指令を出すとあっという間に酸素が

こころが理由もなく深く安心していて、アタマのなかにずっとひとつの考えがとどまっていて、海に注ぐ直前の大きな川の流れのように、ゆっくり鼻の穴を息が移動する状態があります。吐く息と吸う息を合わせて1分くらい。

脳から身体に「ゆっくり呼吸せよ」と指令を出すとあっという間に酸素が足りなくなってしまいますが、そういうのをやめて、完全にやめて、うまくいくかなあとか、やめたらどうなるんだろう?という想像も期待

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#029_思考実験(その一)

#029_思考実験(その一)

なんでも出来るとしたら、なにがしたい?
という質問は、

それをすると、きみのなにが満たされるの?
という質問と同じです。

きょうの午後死刑になるなら(しかもなんでもできるとしたら)、いまなにがしたい?
という質問に対する、
死刑をキャンセルしたい
という、命がけの回答と向き合う。

なにが満たされるのか?
なにを満たそうとしているのか?

それ以外にこたえがあるとしたら、そのときの自分はどうい

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#028_肩や腕にほんの少し残っていた緊張も消滅したので、手のひらが真上に。

#028_肩や腕にほんの少し残っていた緊張も消滅したので、手のひらが真上に。

シャバ・アーサナはしかばねのポーズという意味で、英語のひとたちも
corpse poseと呼ぶことが多いみたいです。

ナマナマしいことばが並びますが、死んだばかりの身体は緊張ゼロで背中の腰のあたりのスキマも、首のうしろのスキマもなくなって床にくっつくみたいないいかたをします。実査には死後硬直があるので、それが始まるまで。

緊張ゼロは一筋縄ではいきません。

アーサナを何年もやっていると、シャバ

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