kenwatanabe

まだまだよくわかっていませんがライフワークはヨガです。 リシケシュにて僧侶にインド思想としてのヨガを学び、2011年より田園地帯の古民家に暮らし、ヨガ教室を開いて生計を立てています。 tomoyoga.org

kenwatanabe

まだまだよくわかっていませんがライフワークはヨガです。 リシケシュにて僧侶にインド思想としてのヨガを学び、2011年より田園地帯の古民家に暮らし、ヨガ教室を開いて生計を立てています。 tomoyoga.org

    マガジン

    • ぼくたちはなにで出来ているのか

      • ぼくたちはなにで出来ているのか

    最近の記事

    ヨガ中もそれでいいのではないか。だれかに見られるためのものではなく、自分に評価を与えるものでもなく、ただいらないものがいらないと気づく時間。

    胸の前で合掌すると、その瞬間、とんでもなく呼吸がゆっくりになることがあります。 仏教やヒンドゥー教の社会では、胸の前で合掌しているひとに話しかけることはなく、胸の前で合掌しているひとは話しかけられることに対して準備をしている必要がありません。 そうしてはじめて、じぶんの外で起こっている、あるいはこれから起こることに対してあらゆる反応も準備もせず、コップの泥水がゆっくり沈澱するように、じぶんがゆっくり静かになっていくのを妨げるものがない時間が手に入ります。 ヨガ中もそれで

      • #392_ひとつのポーズが終わって、心身がゆっくり静止に向かい、息しているだけで幸せな時間は、コップの水のさざなみが消えていく様子に喩えられます。

        ひとつのポーズが終わって、心身がゆっくり静止に向かい、息しているだけで幸せな時間は、コップの水のさざなみが消えていく様子に喩えられます。 手に入れるべきもの、到達すべき状態は、そもそもいらなかったものがすべて離れていって、なんの揺らぎもなく、なんの揺らぎもないので満ち足りてしあわせな存在。

        • #391_練習の結果ではなく、我慢の時間でもなく、気づきや静かさがもたらす、呼吸のじゃまをするものが消えて、ゆっくりと現れる呼吸

          ヨガを続けていると、ある日とつぜんびっくりするくらいゆっくりした呼吸が出てくることがあります。 大きな川の河口のような、すこし待たないとどちら向きに流れているかわからないくらいゆっくりした息の流れ。 練習の結果ではなく、我慢の時間でもなく、気づきや静かさがもたらす、呼吸のじゃまをするものが消えて、ゆっくりと現れるもの。

          • #390_くやしさをバネに生きると

            「ぼくたちは、言葉で出来ていますか?」 そうですね 「くやしさをバネに生きると行き止まりになってるみたいなことですか?」 そうだね

          マガジン

          マガジンをすべて見る すべて見る
          • ぼくたちはなにで出来ているのか
            kenwatanabe

          記事

          記事をすべて見る すべて見る

            #389_そうして得られた心身の関係、あるいは自分との向き合い方は、人生を支える深い気づきにつながります。

            両足を伸ばして座って、お尻の後ろに両手をおいて、小指の先どうしが触れるくらいに軽く腕を寄せて、呼吸が整うのを待ってから、お尻を持ち上げて、天井を見上げます。自分では見えませんが、踵から頭までが一枚の板のように平面。 このポーズをやりかたには二通りあります。心と身体との関係が二通り。自分との向き合い方が二通り。 ひとつめは、身体を緊張させて、お手本通りのカタチを再現するやりかた。パフォーマンスや評価や存在するスポーツに似ています。 ふたつめは、最小限の緊張で同じ形を作るや

            #388_その結末にそなえて、どんなにじぶんが正しくても、だれの不幸も求めない選択を

            「肉親を殺された怒りも、長い年月をかけて小さくなって、やがて消えていきます」 「あのときあのひとが極刑にならなくてよかった、と思う日がやってきます」 「大嵐のように揺さぶられた心も、ゆっくり時間をかけて波のない水面にに」 「その結末にそなえて、どんなにじぶんが正しくても、だれの不幸も求めない選択を」

            #387_「太陽礼拝とそのほかのポーズの違いはなんでしょう?」

            「太陽礼拝とそのほかのポーズの違いはなんでしょう?」 「祈りと瞑想です」 「そうです。パフォーマンスではなく瞑想であるために、本人にしかわからない出来ごとがその目的になり、静止、止滅を完成形とします」 #387_ #

            #386_決して『ひさしぶりなのでポーズをやりにくい身体』という自分との向き合いかたではなく

            ひさしぶりにヨガをするとほんと気持ちいいですよね 決して『ひさしぶりなのでポーズをやりにくい身体』という自分との向き合いかたではなく、ひさしぶりの温泉がとても気持ちが良いように、ひさしぶりなので気持ち良いと感じている存在としての自分。

            #385_これは気づくことで進むしかないんですが「ゆっくり動いてポーズを作る」というときに

            「これは気づくことで進むしかないんですが『ゆっくり動いてポーズを作る』というときに、『ゆっくり動く』と『ポーズを作る』のどちらがヨガの価値の部分かというと『ゆっくり動く』であって『ポーズを作る』ではありません」 『言葉によって規定された自分』を手離す手段としてのアーサナ。

            #384_欲求が、だれかの利益のために作られていることはべつに悪いことではありませんが、満たし続けても永遠に満たされないとしたら

            むかし、アメリカで、 『みんなが買える自動車』 が売り出されて、みんなが買って、 『欲しい人はみんな買ったからもう売れないね』 みたいになったときに、 『買った人たちも2台目が欲しくなるように、かっこいいモデルチェンジをすれば良いのでは?』 というアイディアを、 『そんなのうまくいかないよ』 とみんなが思ったのですが、予想外にとてもうまくいきました。 ぼくらの欲求は、だれかの利益のために作られたものかもしれません。 欲求が、だれかの利益のために作られていることはべつに悪い

            #383_なにかをキライになることで、それから自由になることはありません。いらなくなって初めて自由。

            なにかをキライになることで、それから自由になることはありません。キライになる必要さえなくなって初めて自由。

            #382_「○分」みたいに答えて、それが「がんばって○分続けられるように」という意味になってはこまるなあ、と考えます。

            「ひとつのポーズをどれくらいの時間やるといいですか?」 という質問には、 「○分」みたいに答えて、それが「がんばって○分続けられるように」という意味になってはこまるなあ、と考えます。 「納得するまで」 という回答はひとつの理想形。

            #381_このふたつは、見た目は同じですが、なにが違うでしょう? どちらをしているのか、どうすれば区別ができるでしょう?

            たとえば、こう、バランスのポーズをするとします。 チカラを込めてカラダを動かないように支えている状態は、そのポーズはヨガになっていないわけです。 カラダを支えるチカラを時間をかけてゆるめていって、そうしてヨガになっていきます。 このふたつは、見た目は同じですが、なにが違うでしょう? どちらをしているのか、どうすれば区別ができるでしょう? 「呼吸」 そうです。

            #380_人間が自分を表すために作り上げたコトバは、生理的、進化論的な欲求によって色づきます。

            人間はコトバで出来ています。 「手」「足」「眼」 etc.。 コトバは手や足や眼の実存を表すのではなく、周囲との恣意的な境界線を引くことで認識や思考、世界の構築を可能するものです。 人間が自分を表すために作り上げたコトバは、生理的、進化論的な欲求によって色づきます。 「こうあって欲しい」「こうじゃなきゃイヤだ」 etc.。 コトバによる境界線からも、欲求による認知の歪みからも自由で、過去からも未来からも自由で、いまここに存るものに。

            #379_じっとしていると、ノイズがゆっくり消えていって、最後に本体が残ると思ったら、全部なくなってしまうような気がしてコワいです

            「じっとしていると、ノイズがゆっくり消えていって、最後に本体が残ると思ったら、全部なくなってしまうような気がしてコワいです」 「全部なくなったらダメですか?」 「ダメじゃないけど怖い」

            #378_余韻は時間をかけて薄れていき、やがて消えます。

            たとえば体側を伸ばすポーズのあとに、ゆっくりと座って、ゆっくりと呼吸をして、身体に残っているポーズの余韻に意識を向けます。 余韻は時間をかけて薄れていき、やがて消えます。 消える瞬間の、左右のどちらに余韻があってどちらにないかが分かる状態からわからない状態への移り変わりを認識することによって手に入るものは「限りなく無音に近い、かすかな信号が感じられる静かな状態」であり「急いでも早くならないものとして身体と向き合うという気づき」。 自我という作用の反作用としてしか存在出来