けん
夕陽がこんなに美しいのはどうしてだろう。夕陽の美しさを言葉を尽くして語れども、到達しない美。それがどうやって美しいのか、どう美しいのかを考える。
秋の匂いがした。白っぽい青空には、盛りを終えた入道雲がポツポツと取り残されている。少し肌寒い。 僕たちは、まだ明けきっていない暗い朝日の中をゆっくりと歩いていた。朝露に濡れたコンクリートには、黄色や赤に変色した落ち葉が所狭しと落ちている。 ー秋は嫌いよ、寂しいわ。 そのように言った鏡子の顔は、朝焼けの光のせいで暗いコントラストができている。 ぼくは秋について考える。手始めにキノコについて考えてみた。しかし、薄暗い森の中で、無数に生える、奇妙な色や形をしたキノコは、ぼ
彼らは赤く、そして橙色に燃える夕日が、湖面の青に反射して、空と水の境界線が曖昧になってしまっているのを発見した。夕凪のそよぐ湖岸の斜面には、細長い緑色の雑草がユラユラと揺れている。季節は夏。何匹かのヒグラシが刻一刻と迫る自身の死と、それから仲間の死を予見するかのように、哀し気に鳴きあっていた。 女は欄干にもたれ掛かりながら、水平線の先にある空と水が溶けあったパステル色の彼方を見ながら、そしていかにも意味ありげにこう言った。 ―あれは私達みたいね― 男はこの発言に応える回
夜風がとても心地よかった。春の夜空にはハラハラと星が輝いていた。星々の間には赤く点滅する孤独な光が高速で移動している。飛行機だ。それがぼくの額のずっと先を通過する時、「ゴーッ」というくぐもった轟が、ぼくを覆う夜空の天蓋を細かく振動させていた。 ぼくははるか上空を通過する飛行機を見ると、少しのあいだじっと眺めるという奇妙な癖があった。そして、ぼくは飛行機に乗る彼らの一人一人について想う。 彼らはそれぞれ行き先を持っていた。彼らはそれぞれに帰るべき家があり、向かうべき現
卒業する先輩方に捧ぐ ぼくは川の流れを見ていた。川の流れは多くの落ち葉をも流していた。顔を持たない多くの落ち葉がぼくの下を通過し、またその全ての落ち葉が二度と戻ってくることはなかった。 ギイギイ、ギイギイ。何を想う?ああ、寂しいのだ。ぼくは水面に揺らぐぼく自身の影を見つめる。川の水は月の光に照らされてわずかに白く濁っている。 その時だった。水面に白く光る幾つかの何かがうつった。それは小さなオイカワだった。彼らは水面に口を向けて何かを告げようとしている。 やがて
風が吹いていた。 オレンジの木から親指の爪くらいの大きさの茶色く腐食した小さなオレンジが落ちるのを目撃した。 「ボトッ」というくぐもった音と共に僕はしばらくのあいだ動けなくなってしまった。 なぜなら、周りでそれを見ていた血色の良い無数のオレンジたちは、春の柔らかい日差しの中でイキイキとその身体を曝け出していたからだ。 落下したオレンジは誰にも気づかれずにコンクリートの隅にに打ち捨てられていた。 そして、いつのまにかぼくは硬質なコンクリートの上で風に吹かれ
これから書くことは音楽の評価ではない。それを超えた、極度に主観的な印象である。そうして、その印象を誰がバカにできようか。芸術とは作る側、それを鑑賞する側という二項対立的な発想をどこまでも超越し、作られた作品を一つひとつ丹念に味わう必要がある。もはやそれは鑑賞する側の創作であり、芸術に向かうべき態度であるように思う。 ある夏の日の午後、木の葉に遮られた弱い陽光のなか、風鈴と共に風に揺られて、母親が眠っている子供に唄って聴かせているような優しさを持つ。 また夜明けの瞬間
薄暗い部屋の中で、床や棚、机の上の至る所に書類と書籍が乱雑に散らばっている。 突然、オレンジ色の斜陽が白いカーテンを通過して部屋の中に入り込んでくる。 乱雑に置かれた書類の上を静かに舞っている埃に反射して綺麗だった。 それは致死的な毒を飲んだあと、死を待っている時のように、静かで清々しい光景だった。
電車の車窓から夕陽がみえた 氷河のような白い雲に 陽光が反射してきれいだった この氷河がぜんぶ溶けて みんなめちゃくちゃにしちゃうような 大洪水を起こしてしまえばいい だがしばらくすると 雲は暗い鈍色となって霧散してしまった そこでぼくは、また明日も少しずつ生きていこうと思った
夜遅くに家に帰るといつも父が起きていて、よく食事を用意してくれる。ぼくにはその愛情が鬱陶しかった。きっと母でも同じように思っていただろう。なぜならべつに父が特別嫌いというわけではないのだから。 11時を過ぎて帰宅し、リビングでゆっくりしていると、父は「おかえり」と声をかけてきて、続いて必ず「ご飯は?」と聞く。ぼくは冷徹に「いらない」と答えたい。どうしても鬱陶しい、この面倒臭さを今すぐに払い除けたい。結局、「ああ」とも「うん」ともつかないような呻き声を上げるだけである。
人間とは精神である(キルケゴール1849)。精神は身体性や論理を超えて、それ自体として独立して存在している。 自己を内省するとき、内なる自己にもはや自分ではない「なにか」が蠢いている。その蠢きは自己自身でさえ捉えることができない。それはどのような媒体によっても表現しきれない。 たとえば、「わたしとは何者か」という内省について思うとき、それを真に見た人間など誰1人としてない。それは古い時代のギリシャ哲学者が初めて現代に至るまで誰1人として到達していない未知の領域である
ぼくは芦ヶ久保のカフェで暫し休息を取っていた。カフェはオークで作られ、山小屋をイメージしているらしく、古風な暖炉が店中を暖めていた。 外は見事な雪化粧に覆われ、雪が陽光を反射してぼくの座っている席の真横にある窓が白むほど照り輝いていた。 木製のスツールの座り、温かいコーヒーを飲んでいる。目の前には背の低い木製の丸机があり、その上で読みかけの長編小説が伏せた状態で、そして氷の入った水がガラスのコップの中でじっとしている。 店の中は暖炉が時折パチパチとその大きな口の
また熱が出た。今年に入って3回目。 脳みそがオブラートで包まれているように、なにものにも近づけず、ただ移り変わる空の色をあてもなく眺めている。 気づけば、外が暗くなり、街灯がひとつ、白く冷たい光をアスファルトにむけている。その光は暗闇の中で孤独に弱々しく点滅している。 嗚呼、これが目眩ならばいいのに。
蟻が泥沼に堕ちた 蟻は安らぎを求めてもがく 泥沼はやがて蟻の足を硬い土塊で固め そうして頭から腹袋までを溶かす やがて残ったのは硬直した足だけとなった。
夕陽の映る海面が 翡翠色の波を立てていた 砂浜には忘却の孤城が 波にさらわれ崩れてゆく 波は肌で触れれば暖かく、 丘には琥珀色のすすきが 夕凪の涼風になびいて心地よかった。 丘の上には赤と白の灯台が 独り静かに砂浜の音楽を聴いていた。
まっ白な雪の中に指で文字を刻んだ。 明日にも消えちゃいそうな 震えた文章を書いたよ。 なぜなら僕の想いは 誰にも届きそうにないから。 雪のように積もる想いも 寒さに震えた感情も 何もかも踏み潰されて凍りついてしまった。 凍った僕の心は春を待ち、叫んでいる。
さきほど、ぼくの目の前で親子3人が楽しそうに会話していた。ママとパパと3、4歳くらいの男の子だ。 男の子はパパの上に肩車されて、ママに「どのぐらい大きい?」としきりに聞いていた。 ママも優しいママで「180cmくらいかな〜?」などと返していた。 「パパはねあんまり大きくないんだよ」とママ。それに対してニコニコしているパパ。男の子は「宇宙にはあとどのぐらいで届く?」などと言い続けていた。 ぼくはこの出来事に心の底から愛を感じた。