斜陽、ヒグラシ

 彼らは赤く、そして橙色に燃える夕日が、湖面の青に反射して、空と水の境界線が曖昧になってしまっているのを発見した。夕凪のそよぐ湖岸の斜面には、細長い緑色の雑草がユラユラと揺れている。季節は夏。何匹かのヒグラシが刻一刻と迫る自身の死と、それから仲間の死を予見するかのように、哀し気に鳴きあっていた。
 女は欄干にもたれ掛かりながら、水平線の先にある空と水が溶けあったパステル色の彼方を見ながら、そしていかにも意味ありげにこう言った。
―あれは私達みたいね―
 男はこの発言に応える回答を持ち合わせてなどいなかった。男は耳が遠くなるような、そして顔の皮膚よりもさらに深いところに本当の彼自身がいるような、気の遠くなるような感覚を味わいながら、女の発言の真意を探っていた。
―夕日の美しさのことかい?―
 結局、男は女の言いたいことなど何一つわからなかった。この女の発言は時として抽象的に過ぎ、あるいは神経症的な傾向を持ち、多くの人間の理解を苦しめた。そしてそれは今の男にとっても例外ではなかった。
 女は何も言わなかった。憂鬱そうに眼を細めながら、湖面と空のグラデーションを見つめていた。女の長く、そして漆黒のまつ毛が風に靡いて微かに揺れている。一方で、女の背中の中ほどまである長い頭髪は、夕凪に吹かれながらも、女の背中に固着したままであった。
 女は長い間、虚空を見つめていた。やがて曖昧であった湖面と空の境界は、むしろ鮮明になる。不自然なくらい赤く傾いた夕日は、湖面の青さを黒いほどにして境界線を際立たせている。―ああ、夜になる。―男は思った。夕日が美しいのは、のちに夜の闇に包まれてしまうからではないだろうか。もう彼らより後ろ半分は空が暗みはじめ、すでに藍色になっている。
―あれも私達みたいね―
 女の声は震えていた。女はすでに泣いていたのだ。憂鬱そうに細めた目には、黒く透明な水気を含んでキラリキラリと光っていた。斜陽を前に泣いている女の横顔は可憐だった。
―このまま湖に飛び込んでしまいましょうよ―
 男は女の全身を頭から足の先までゆっくりと眺めた。黒く下した長い髪に、白いノースリーブのワンピースを着て、オレンジ色のハイヒールのサンダルを履いていた。きっと自殺するにはうってつけの格好だった。ワンピースの裾が水気を多く含んだ夕凪に心地よさそうに揺られている。
 女は男と対面する。女の目は相変わらず黒く濡れていた。
―手を見せてくれないか?―
 女は男に手を差し出す。男は白くきめ細かい女の手に触れた。ゴツゴツと骨張り、毛の生えた男の手は女の滑らかな指をすべり、柔らかな手の甲へ触れる。その瞬間、男は悟った。
―ぼくはきっと何もわかっていなかったんだね―
―きっと、これからもそうよ―
 二人はゆっくりと湖面に近づいた。二人の足が湖面に触れると、二つの波紋が重なり合って打ち消しあっている。やがて二人は暗い湖を進んでゆき、頭の先まで水面下に潜っていった。

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