精神

 人間とは精神である(キルケゴール1849)。精神は身体性や論理を超えて、それ自体として独立して存在している。

 自己を内省するとき、内なる自己にもはや自分ではない「なにか」が蠢いている。その蠢きは自己自身でさえ捉えることができない。それはどのような媒体によっても表現しきれない。

 たとえば、「わたしとは何者か」という内省について思うとき、それを真に見た人間など誰1人としてない。それは古い時代のギリシャ哲学者が初めて現代に至るまで誰1人として到達していない未知の領域である。

 相対的な意味ではなく、専ら絶対的な意味、要するにそれ以外のものとの間において捉えるという見方ではなく、むしろその関係性から独立して確立しているモノとして捉えるという見方において何かを理解するということは「物自体」を捉えることに等しいだろう。

 従って、精神とはある種「物自体」であり、身体性や論理的な枠組みを超越して、それ自体として単独に存在する。

 そして、もはや人間の持つ身体など精神にとっては「棺」でしかない。膨大なる未知たる精神を前に、身体性や論理はもはや死体である。なぜなら、身体とは精神のもつ身体性という特徴によって現象している一つの表象にすぎないのだから。

カント『純粋理性批判』
キルケゴール『死に至る病』
ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

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