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一周忌にあたり 沖縄戦後最大の作曲家 普久原恒勇先生のことを

名作『芭蕉布』を産んだ作曲家

 沖縄戦後最大の作曲家、普久原恒勇先生が亡くなられてからことし2023年11月1日でちょうど一年。ほぼ三十年お世話になり、さまざまなことをお教えくださった普久原先生について、個人的な記憶の断片をごくごくほんのすこしだけこのタイミングで書き留めておきたいとおもいます。

 2022年11月1日、ぼくはご家族からのメッセージで急を知りました。とにかく駆けつけるべく、航空便をおさえて沖縄をめざしたのです。喪服も何も持たず、すべて沖縄到着後に準備したのです。

沖縄タイムスの普久原先生ご逝去記事 前夜急を知り駆けつけた那覇空港で購入
やはり那覇空港で購入した琉球新報

 普久原恒勇先生のプロフィールについては、先生の作品をリリースされてきたビクターさんの下記ページにコンパクトに紹介されています。

 普久原作品の代表曲としては『芭蕉布』がたいへん有名です。NHK「名曲アルバム」でも取り上げられ、長山洋子、夏川りみ、森山良子、倍賞千恵子、ボニージャックス、HY、新垣勉、加藤登紀子(敬称略)といった、世代もジャンルも越えた数多くのアーティストに愛されてきました。沖縄を代表する名旋律として広く知られ、昔から伝わる沖縄民謡だと思い込んでいるかたもいるほどです。

自らの功績を誇らなかった音楽家

 沖縄での知名度は非常に高い普久原先生ですが、自分の名前を前に出したり、目立ったことをするのがあまりお好きではなかったようです。例えば普久原先生のレーベル、マルフクレコードの大名盤である『嘉手苅林昌特集』。沖縄民謡の伝説的な名歌手、嘉手苅さんの歌唱も文句なくすばらしいものですが、背景で歌を支える三線も実に闊達。クレジットされてはいないのですが、実は普久原先生も三線で参加されているのです。先生は三線の名手でしたが、それを大きく前に出そうとはなさいませんでした。
 いちど、なぜクレジットしなかったのか質問したことがあります。答えはこうでした。
「プロデューサーは目立つことはしないものさ。目立つのはアーティスト」
 ぼくのような俗物プロデューサーには想像もできなかった答えでした。普久原先生の姿勢が端的に表れた思考だとおもいます。

『嘉手苅林昌特集』 普久原恒勇が率いたマルフクレコードの決定的名盤 普久原自身演奏しているが自分の演奏クレジットはしなかった

90年代 先生との出会いとアルバム制作

 お目にかかるのがたいへん難しい普久原先生と90年代前半に引き合わせてくださったのは、当時沖縄で音楽制作の仕事をなさっていた黒川修司さん。竹中労さんのご紹介で70年代から沖縄で普久原先生のもとで活動され、ぼくのような「にわか」とはわけがちがうかたでした。
 ぼくは先生のご自宅兼事務所で食事と泡盛をごちそうになり、何度か酩酊するうちに(いまでこそ酒と縁を切りましたが、当時のぼくは底なし沼でした)どこかを気に入ってくださったようで、少しずつレコーディングをご一緒するようになりました。たぶん酒を飲むぼくを品定めしておられ、ぼくが出来の悪い欠陥だらけのダメな人間で脇の甘さを抱えていること、それを隠さない愚直さとを、先生なりに評価してくださったのだとおもいます。

 90年代にご一緒した何枚かのアルバムのなかでとくに印象に残っているのは、普久原先生の代表作のひとつである琉球民族楽器による管弦楽組曲『民族音楽 史曲「尚円」』というアルバムと、東京のスタジオで先生の代表曲を弦楽四重奏中心のバラエティに富んだアレンジで収録した『BASHOFU 普久原恒勇作品集』。
 いずれも先生は喜んでくださいましたが、とくに後者は周囲のかたからのリクエストが多かったようで、ぼくの顔を見るたびに何度も何度も再プレスのご要望を先生からいただきました。
 ぼくの力不足で実現できなかったことがたいへん悔やまれます。

『民族音楽 史曲「尚円」』のレコーディング

 『民族音楽 史曲「尚円」』の録音は1996年7月。三線など琉球民族楽器による管弦楽の録音経験は、いわゆる「オーケストラ」編成のレコーディングに慣れたぼくにも録音エンジニアにも未知の領域で、大変に苦労しました。途中登場する民謡は、歌い手の踊りと歌の旋律の拍子が異なりずれていくというもの。録音中、そんなことが可能なのかとただただ驚くほかありませんでした。

1996年、レコーディング時のスナップ 指揮台の上、鉢巻き姿が普久原恒勇先生
『民族音楽 史曲「尚円」』 のちマルフクから実況録音盤もリリース そこではぼくは音楽監督を命じられました

 この作品はぼくの個人の制作史のなかでも深く印象に残っています。少々自信過剰気味で青臭さが鼻につきますが、当時のライナーにはこんなことを書いていました。若気の至りとしかいいようがありませんが、ご笑覧ください。

史曲「尚円」 ライナーノートより

 このアルバムより、トラック1の「前奏曲」を下記にあげています。資料画像などで構成したものですので、ぜひいちどごらんください。

映画『ナビィの恋』音楽制作秘話

 また、沖縄ロケの映画の音楽制作でも、あれこれとご尽力くださいました。ぼくが楽に作業できるよう、ぼくにはわからないように手をまわしてくださったこともあったようです。

 最初に思い出すのは、『ナビィの恋』。力量不足のぼくは四苦八苦していましたが、先生がそっと支えてくださってなんとか乗り切りました。
 劇中でビゼー《カルメン》の有名な〈ハバネラ〉を演奏するシーンがあります。歌う兼島麗子さんを伴奏するのは、なんと沖縄の三線合奏団。面白がってこれやりましょうと言ったはいいものの、いざ三線合奏を録音しようとして窮しました。西洋音楽を三線合奏で、などという演奏を引き受けてくださる三線奏者がいるわけがありません。すこし後悔しました。
 困り切って普久原先生に泣きつくと、
「おまえさんは面白いことを言うねえ」
 と笑って引き受けてくださったあとで、
「ただし工工四はおまえが書くこと」
 と厳しい条件をだされたのです。工工四は三線のための文字による楽譜。ビゼーの管弦楽スコアを工工四に書き直せというわけです。おそらくは面白いけど本気かどうか試してやろうと思われたにちがいありません。ぼくはたまたま滞在中だった沖縄・久米島の宿でウンウン唸りながら工工四を書いたのでした。

 録音された〈ハバネラ〉の冒頭には、「ハバネラ」という普久原先生肉声の録音コールが入っています。もちろんそれは映画では聴くことができない、たいせつな音の記憶なのです。

映画『ナビィの恋』オリジナルサウンドトラック 「ハバネラ」収録

普久原先生のインタビュー本『芭蕉布』

 その後、数枚のアルバムレコーディングをご一緒し、先生のインタビュー本『芭蕉布』や、先生の名作の一つ『島々美しゃ』をタイトルに頂いた映画の制作なども関係させていただきました。このあたりのことはいずれも思い出が多すぎて、いまはまだ整理がつきません。いずれまとまった形で書ければと思ってはいるのですが。
 もし先生のことをもうすこしお知りになりたいかたおられましたら、ぜひインタビュー本もお読みください。これは対面と、メールでぼくがお送りした質問に、先生がカセットテープで回答をお送りいただくというキャッチボールをあわせて書き上げました。いまもテープは手元にあります。いつの日か、アーカイブとして先生の肉声を公開することができたらいいのですが。

『芭蕉布 普久原恒勇が語る沖縄・島の音と光』ボーダーインク

最後のレコーディング

 最後のレコーディングは、2016年、先生の代表曲をハイレゾレコーディングしたアルバム、『しまうたの系譜 vol.2 普久原恒勇作品集』。ハイレゾレコーダーをぼくの自宅から先生の事務所に送り、いつも録音に使わせていただいている大広間にセットアップし、フォーシスターズ、我如古より子、饒辺愛子、山里ユキ(敬称略)といった名歌手のかたがたの歌唱を収録させていただいたのでした。思い起こしますと、こういう形での沖縄民謡界の名手を集めての先生の作品集成は初めて。
 まさか、それが最後になるとは……。

『しまうたの系譜 vol.2 普久原恒勇作品集』フォーシスターズレコーディング風景

 このアルバムはダウンロード販売しています。ご関心おありでしたらぜひ上記リンクよりご試聴をおねがいします。

告別式で耳にしたもの

『BASHOFU 普久原恒勇作品集』

 2022年11月3日の告別式にうかがったとき、とてもちいさな音量で前述した先生お気に入りのこのアルバムが流れていました。それに気づいたときの感情は、ちょっと書き表すことが困難です。
 時間が凍ったような、そんな経験でした。

 いまでは入手も難しいかと思いますので、アルバムの最後にアンコールピースのイメージで収録した、ぼくが『芭蕉布』をThe Beatles『She's Leaving Home』の伴奏の記憶を重ねて編曲したものを、下記にあげました。こんな発想を実行してしまえるほどに、普久原メロディとは沖縄にとどまらない普遍的なちからを持ったものだと思っています。

形見のカメラ

普久原先生にお贈りいただいたCONTAX G1

 普久原先生は無類の写真好きでした。実際にカメラマンになりたかったともききます。自らのレーベルのジャケット写真もご自分で数多く手がけてこられました。
 ある日、ぼくの家に小包が届きました。普久原先生からでした。開けてみると、なかからCONTAX G1が。びっくりしてお電話すると、
「G2買ったからG1はおまえが使えばいいさ」
 と。

 今では各部劣化したG1。先生の形見になってしまいました。こんど先生がお好きだったポジを入れて、先生がお好きだった花を撮りにでたいとおもっているのです。

 断片的な文章になりました。ぼくは花など撮影するたびに、トリミングし縮小して先生のガラケーにお送りしていました。先生は絵文字を使ってお礼のメッセージをくださるのが常でした。
 今でも「これはお送りしなきゃ」とおもうことがあります。もしかしたらぼく自身が先生にお会いしに行くまで、そう思い続けるのかもしれません。

 ほんとうに、ありがとうございました。

最後に先生にお会いした2022年6月17日 先生のご自宅にて お元気でした


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