短歌を「読む」 −音楽から考えよう 2–
・はじめに
初めまして、ネットでボソボソ短歌を詠んでいる石原という者です。特に受賞歴とかはありません。
このシリーズでは、短歌を映画やアニメ、音楽などを通じて読み取っていきたいと思います。短歌は、自分も実践していて、専門書も読んでいて、という人しか読めないというものではありません。短歌というものが、みなさんにとって親近感のある表現として楽しまれると嬉しいです。
・本文
今回読み取りたいのはこの歌だ。
「目が死んでいる」や「作者の死」など、死をメタファーとして使う表現は枚挙にいとまがない。だが、その多くがネガティブなニュアンスを持つことに気がつけるのではないだろうか。
死は絶対の終わりだ。以上も以下もない。だから、それを比喩にすれば、ネガティブなニュアンスになるというのは当然な気がする。
でも、引用した短歌にはそういったニュアンスはない。死体と間違えられるということは、身体が死んでいると誤認されるような状態にあったということだ。生気が感じられず、ほぼ完全に静止しているといったところだろうか。
なのに、この短歌の比喩は、美的で、ネガティブなニュアンスを脱色しているように感じられる。それはどうしてだろうか。
このエッセイでは、この問いについて、音楽の歌詞を読みながら考えていく。
この短歌は、31字、一つの内容を一つの文章で詠んでいる。
メインの出来事は、短歌の中の人物、「僕」が誰かと抱き合っているということだ。「夏が誤解するほど」とあるから、季節が夏っぽいということだけは推察できる。
だけど、それ以外に書かれていることはない。二人が抱き合っていることについて説明してくれるのは、前半部分と二文字だけはみ出た、「完璧な死体と夏が誤解するほど」の部分だけだ。
では、この表現にはどういったニュアンスが含まれているのか考えていく。
そこで初めに見ていきたいのが、ラッパーのTohjiとLoota 、プロデューサーのブロディンスキによるアルバム「KUUGA」だ。
「KUUGA」では度々、性行為を彷彿とさせる描写が挟まれる。その中の一つに、「errday」では次のようなリリックがラップされる。
二つの肉体が触れ合い、ほとんど一つになったと言えるほど近づく時、そこには「ふたりだけの形」が生まれると言えるだろう。
かけがえのない一人と一人、その形、それが二つある。合わされば、その組み合わせのみが表す特有の形状ができる。この見方を使って、他の曲を見ていきたい。
まず、同人音楽サークル、幽閉サテライトの「束縛アネモネーション」の歌詞を引用しよう。
この曲は、浮気性な「君」に対してひたすら愛を向け続ける人物を歌っている。「君の瞳はどこまで正直?/愛するほどに節穴になるわ」、「些細な目移り良しとしましょう/君は優しい臆病者だし」、「君は私を泣かせるのが好きみたいで嫌なヤツだわ」などの歌詞から、相当手を焼いている一方で、本人は相手にかなり入れ込んでいるようなのが読み取れる。
引用部分では、移り気な恋愛感情を超越して、損得勘定を考えない関係になろうという歌っている。それを「二人、狭き部屋で押し花になり」と表現している。この表現について考えていきたい。
花は、摘んで、花瓶に挿していればいつか枯れてしまうものだ。でも、押し花にすれば、枯れることはない。その色彩をいつまでも保ったまま保管される。
これはややファナティックな、同じように、二人の関係を今のままで保管するために、愛を死によって停止して、永遠にしたいという願望にみえる。有り体に言えば、心中だろうか。
二人を押し花にするというのは、言うなれば「固形化」だ。曲中の人物は、流動的な「ふたりだけの形」を固形にすることで、永遠性を獲得しようとしている。そのために現在二人が愛し合っている関係をかなぐり捨てることも辞さないというのだ。
死体のように、ではなく、実際に死体になれば、この通りに望みは叶う気がする。
だけど現実は、誰も彼も心中しているわけではない。できないのだ。
ここで、最後に米津玄師の「YELLOW GHOST」を見たい。この曲には、引用した短歌と同じ用法で死体が比喩に使われている。
この曲は、別れを歌っている。一方で目立つのが、サビの「まだ触らないで 息をしないで 怖がらないで この目を見つめて」、「震えないで 生き足りないね この夜だけ離れないでいて」だ。
別れを悲しむのと対照的に、「触らないで」と触れ合うことを拒否して、「息をしないで」と生を拒否する。でも、「生き足りないね この夜だけ離れないでいて」と、また生へ戻ってこようとする。生と死、二つの願望を行き来しているのだ。
そして、大サビの引用部分に続く。歌詞には書かれていないが、「死体みたいに重ねた僕らの体」と「最後くらい笑ったままさよなら」の間で「離れないで」と合いの手を挟み、強い願望を反復する。離れたくないと触れ合う二人の姿に、死体のイメージが重ねられるのだ。
絶対的な終わりとしての死のことを念頭に置いて考えると、二つは相反する気がする。なぜなら、本当に死んでしまえば、確かに「ふたりだけの形」は固形化するだろうが、もう二度と愛することはできないからだ。つまり、愛を永遠にすることは、愛を捨てることと表裏一体で、矛盾する。
「YELLOW GHOST」の曲の中の二人は、心中したわけではない。だから、時間の経過とともに、二人の関係を失った。
だけど、だからこそ、比喩上の死が生きてくる。まるで死体であるかのように体を重ねた。それは、ひととき、永遠に達したかのような錯覚、幸福の絶頂なのではないだろうか。
江國香織の代表作に『号泣する準備はできていた』という小説がある。大人の女性が主人公で、夫とのすれ違いや、自分の浮気、離婚などを描いた短編集だ。この小説に「人生は恋愛の敵」というセリフがある。
夫婦は、恋愛における一つのゴールだ。でも、二人の関係は、人生が進んで、時間が経過することで、夫婦になってもなお、変化していく。この小説からは、そういった人間関係の様相を見てとれる。
つまり、人生は恋愛を壊してしまう。
それが、ここまでの現代を生きた人々の人生という、巨大なデータベースから学べることだとすれば、死体のようなという比喩が美しく感じられる理由は、絶対的な終わりとしての死のイメージに反抗し、死ねば愛せないが、生きれば愛は壊れてしまうという矛盾とジレンマの中に、かりそめの永遠を見せてくれるからではないだろうか。
だとすれば、「完璧な死体と夏が誤解するほど僕たちは抱き合っていた」という二人は、永遠の幻想のまさに真っ只中にいるのだと思う。
だから、この短歌は、死を纏いながらも妖艶な魅力を放っているのかもしれない。
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【参考文献】
木下侑介『君が走っていったんだろう』 2021 書肆侃侃房
Tohji, Loota & ブロディンスキ「KUUGA」 2021
幽閉サテライト「束縛アネモネーション」 2013
米津玄師「LOST CORNER」 2024 Sony Music Labels Inc.
江國香織『号泣する準備はできていた』 2003 新潮社
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