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ディスコまたはベルリンと廃墟
僕の初めてのディスコ体験を残しておく。話は5年前の夏、22才の僕がぼんやりと体験したものを今更だが思い出したくなった。というのも、東京に出てきてから自分が探していた場所はなにか、ということを少し立ち止まって考えてみたくなった。
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僕の記憶が正しければベルリンの中心部から南に向かう郊外の一部にモルシュトラーセ通りというのがあり、第二次世界大戦時に都市の骨格を成す主要道路に面した集合住宅が大きな
踊り続ける先に何がある
完成させる気力もないのに、このモヤモヤしたものをなにかとして言い切ってしまうと、僕はああこれでいいのかと簡単に割り切ってしまって気付いたら定年間近のなんでもない午後4時の憂鬱になっている気がして、もう少しだけこの不確かな時間を過ごしていたいと思ってしまう。
いやむしろこの状態で居続けることで同じように、空っぽの時間ができてしまうだろうか。形にならないものに興味がある。圧倒的に言葉にできないこと、
Paralysis of Introspection
内省麻痺って知っている?と友人に言われて、僕はなにか麻痺しているのかと、不安になりながら、知らないと答える。
Paralysis of Introspectionー内省麻痺とは、簡単に言えば、自分自身の内面を過剰に考えすぎてしまうことらしい。それは反省ともまた違う。
あるコラムによれば、反省とは「点」であり、内省とは「線」であるという。反省は過去の自分の言動に対して、個別具体的にその事案につい
最悪で最高の時間と、過ぎて行く時間と
成人式以来の友人と酒を交わす。たわいもないこと、オトナになったんだなと、断絶した時間を取り戻すようにあーだこーだと話が弾む。
みんな立派になっていたんだ、国際会社で世界を舞台に飛行機の部品を営業するもの、医者を目指してあと2年実習と放浪をして、これからの舞台に準備するもの、社会人として、来たる明日へまた務めるもの、本当に時間は過ぎているのだなと、当たり前のことにはっとしてしまう。
久しぶりの実
なにもわからなくていい
休学して海外を放浪していた友人が帰ってきた。この1年間、自分と向き合い、日本を離れ、なにかを求めて旅をしていた友人の顔は、きっと輝かしくて、眩しくてしょうがないのかと思ったが、そんなことはなく、1年前のあの頃の顔となんら変わらない様子であった。
わからないことはわからないまま、人とひとが心を通わせることなどできるわけがない、そんなことは、僕たち心が通じあっているよね、と共感を求めた馴れ合いに過ぎ
変わらないものはあるか
最近、映画を見た。現実から逃げ続けていた三十路を少し超えた女が、好意を寄せていた男に裏切られ、少しずつ現実を受け止めて、前に進もうとする話。ひとつの目標に向かって歩みを進めるが、最後にはその目標は成し遂げられない。結局、自分はあのときからなにも変わっていなかったのだと、自分への虚しさを抱え、わんわん泣きながらその話は終わる。
理想や目標はだれしもが持っていて、きっとうまくいくと歩みを進めていても
小さな日常とダーウィニズム
よく研究者や政治家が、己のある過去の出来事が、この人生を歩むきっかけになったという話を聞く。そんなことを聞くと、ふと自分の人生、歩んできた時間に意識的になり、なにか僕はきっかけというものがあったのかなあと、ため息をつきながら思うが、大したことはない。
ふとしたときに他者にあなたはなぜこの道を歩んできたのですか、とまっすぐな目で聞かれると、なんとなく過ごしてきた自分に嫌悪を抱き、だれが見ても胡散臭
自分を守ることしかできない
西陽の光がカーテンの隙間から差し込み、目を覚ます。深い眠りから覚めて、ふと一日の終わりに気付くときの、あの喪失感と、諦めたように時間の流れをゆっくりと身体の内側から感じ取るその感覚の愛おしさは、古い恋人とのなんでもない関係の中で過ぎて行くぬるりとした日常を思い出す。
陽が落ちて、また長い夜が始まることに対する身震いをしていると、友人の誕生日の祝いの席に呼ばれた。それまでなにをするでもない時間が空