なにもわからなくていい

休学して海外を放浪していた友人が帰ってきた。この1年間、自分と向き合い、日本を離れ、なにかを求めて旅をしていた友人の顔は、きっと輝かしくて、眩しくてしょうがないのかと思ったが、そんなことはなく、1年前のあの頃の顔となんら変わらない様子であった。

わからないことはわからないまま、人とひとが心を通わせることなどできるわけがない、そんなことは、僕たち心が通じあっているよね、と共感を求めた馴れ合いに過ぎない。自分の欲求を満たすためのあなたがいるとしたら、きっとあなたへの意志は自分の欲求でしかなく、そこに思いやりなどないのだよと、強く訴えかけてくるような、そんな態度で淡々と1年前と変わらず話をしていた。

話せば話すほど僕の愚かさが露呈するようなそんな感覚、それでいてとても彼の話が理解できた。僕を冷静に突き放すようなその態度は、僕が心を任せて他人の話を聴けるときだ。

いつからだろう。これほどまでに馴れ合いや強いられた関係性に苛立ちを覚え始めたのは。その無意味さに、でもどうしようもなく途方も無い感覚によって、心がぐるぐると渦を巻いてただただ虚無感に襲われる。

どうしてあなたはわかったつもりで居られるのだ、誰も分かり合えることなどないのだと、他人の態度をみて思うたびに、それは自分にも同じことが言えることに気付いて、ただ悲しくなる。

突き放すように淡々と話す彼は、社交的に振る舞いながらも、隠せきれていないその哀愁に、近づかないことへの意志を漂わせていた。なにもわからなくていいのだと、他人と触れ合うことの難しさを何も誤魔化さずに、はっきりと振る舞うのだった。その真っ直ぐな態度は、僕を安心させた。

なにもわからなくていい。わかるわけがない。それでも、その難しさを誤魔化さずに向き合うなかで、やっとほんの少しの優しさと共感が生まれるのだろうなと思うのだった。



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