小さな日常とダーウィニズム

よく研究者や政治家が、己のある過去の出来事が、この人生を歩むきっかけになったという話を聞く。そんなことを聞くと、ふと自分の人生、歩んできた時間に意識的になり、なにか僕はきっかけというものがあったのかなあと、ため息をつきながら思うが、大したことはない。

ふとしたときに他者にあなたはなぜこの道を歩んできたのですか、とまっすぐな目で聞かれると、なんとなく過ごしてきた自分に嫌悪を抱き、だれが見ても胡散臭い輝かしい目で、ちょっとした出来事を大きな口で語りだす。そんなことをしていると、本当に自分が過ごしてきた時間、ある人と話をしたり、好きなことを好きだけ語り合ったり、無垢になんでもないことを笑いあった日々は、あっという間に自分の頭のなかから消え去ってしまう。

みんな違う時間を過ごしてきたはずなのに、みんなと違うことを排除する社会のなかで、本当に小さな、でも本当に自分の心が揺れ動いたことなんて、誰も聞いてはくれない。みんなが決められたきっかけを語り、あたかも輝かしい目をして夢を語らなければ、この社会のなかでは排除されてしまう。

久しく会っていない高校の友人は、「将来が見えない、死にたい。」とツイッターに呟く。あいつとなんか将来の話してなかったよ。音楽と下ネタぐらい、将来なんて見る必要なかった。将来なんか見えなくても、目の前の他者からの優しさを感じ取ったり、今日は晴れたとまっすぐに落ちる太陽の光に、なんとなく過ぎる時間に、何とも言えない潤いがあった。でも、もうすぐ社会が待ってる。

大きなきっかけなんて誰ももってないのではないかと思う。あなたが歩んできたその時間は、確かにあなたのものなのに、誰かに排除されそうになっているんじゃないかと思う。あなたが感じたこと、苦しかったこと、うれしかったこと、ひとを羨ましくおもったこと、全部ぜんぶ、あなたの時間なのに、それを胸を張って、大切なたいせつな自分の過ごした時間ですと言えない社会が目の前に広がっているのかもしれない。

友人が思い悩んでいる目の前で、カチカチとパソコンを叩きながら作業をする。確かに分かり合いたいはずなのに、分かり合えるわけがなくて、自分のことを大切な自分として、その人が思わなければなにも解決しないと思ってしまって、うんうんと相槌を打ちながら、黙って話を聞く。というか、こんな自分があーだこーだとその人に言えるわけがないと思ってしまう。

確かに寄り添いたいはずなのに、この社会のなかで大きな見えない力がそれを拒む。そう思いながらその力と戦おうとしないから、やっぱり僕は偽善者なんだなあとしみじみ、寂しい気持ちになって今日も帰路につく。


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