Paralysis of Introspection

内省麻痺って知っている?と友人に言われて、僕はなにか麻痺しているのかと、不安になりながら、知らないと答える。

Paralysis of Introspectionー内省麻痺とは、簡単に言えば、自分自身の内面を過剰に考えすぎてしまうことらしい。それは反省ともまた違う。

あるコラムによれば、反省とは「点」であり、内省とは「線」であるという。反省は過去の自分の言動に対して、個別具体的にその事案について振り返ること。

「あのシチュエーションで、お客様にあの提案をするのは良くなかった。」

反省とは、できなかったこと、間違えたことのある点に対して、具体的に考察し、解決策を与えるような思考である。

内省は、もう少し長い時間をかえりみること。

「入学して1年が経って、僕は僕がやりたかったことをやれているのだろうか。」

内省とは、ある点ではなく、今まで流れてきた時間を意識的に限定し、それを抽象化したうえで、ひとつの線として振り返るものである。

友人は内省麻痺を教えてくれた上で、僕の物の言い方の危険性を指摘する。ある抽象度をもって言葉を言うときには、それは何かを言っているようで、なにも言っていないということが起こりうる。思い当たる節があったので、僕は麻痺していたのかと、妙に納得する。

反省しているふりをして、物事を抽象化したまま、落ち込んだり、悩んだりしている今までの自分に気付き、少し馬鹿らしくなる。

ただ時間をそこで流れている時間としてありのままに頭の中に納めておければなんて素晴らしいのだろうかと思ったことは数えきれないほどあって、その時間そのものの愛おしさを抱えながら、都合の良いように解釈して、かえりみて、一喜一憂している。

でも、そんな振り返りかたも悪くないのになあと少し思う。常に解決策的に、時間を振り返ることは、たしかに効率の良いことである。でも、僕は別に効率よく生きていきたいわけではない。今まで生きてきた時間、嬉しかったり、悲しかったり、感動したり、人に嫉妬したり、そんな生活の断片をあまり具体性を見出さないまま、心の動きかたそのもので、感覚的な記憶そのもので、その雲の群像を遠くから見て、現れてくる全体を、流れていくものとして見ていたい。それは遠回りかもしれないけど、たしかに自分が生きた時間として表れている。

完成しているもの、完璧を求めたものは、この世界のなかでは、山ほどあって、それはそれで美しいけれど、なにか自分ごとじゃない気分になってしまう。でも、世界は確かに完璧じゃないものもあって、いやむしろ、よく見てみたら、完璧じゃないものばかりなのに、完璧であるように見せているものが、世の中にはたくさんある。胸を張ってそれをぼくの大切なものなんです、と言えたら、きっともっと世界は豊かに見えてくる。

僕はいまもその歪な断片を集めながら、その関係性を正しく言えるように、考えている。物理的な限定としての身体を与えられた僕たちは、想像力の先にしか、他者を介入させることはできない。内省することの先にある他者を、広げていくことができるだろうか。

これもまた、内省麻痺だとしたら、この文章はなにも書いていないことになる。

僕はなにも言葉にすることができない。


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