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「家族介護者支援を、改めて考える」⑳「介護者支援」の必要性を感じた「原点」から振り返る(後編)。

 いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。
 おかげで、こうして書き続けることが出来ています。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


家族介護者の支援について、改めて考える

 この「家族介護者の支援について、改めて考える」では、家族介護者へ必要と思われる、主に、個別で心理的な支援について、いろいろと書いてきました。

 ただ、当然ですが、「家族介護者支援」ということを考えた時に、そこには、様々な幅の広い要素や、今まで少しは知っていたつもりだったことに関して、実は、とても考えが足りないことに気がつかされることもあります。

 もしくは、現状について、これまでのことをもう一度、できれば丁寧に振り返ることによって、「家族介護者支援」について、自分の何が足りないのか。を改めてわかるかもしれません。

「家族介護者支援」に関して、細々とながら仕事として関わるようになって10年目を迎え、改めて考えようと思いました。

 前編では、私自身が家族介護者として、介護に専念する時間の中で、どのようにして、介護者の心理的支援が必要と考えるようになったのか、という話を中心に述べてきました。

 後編では、この10年間の誤算について、お伝えし、これからを考えたいと思います。

10年の誤算

 仕事として、介護者の支援を始めてからの時間で、機会があれば、「介護者への個別的な心理的支援」の必要性を、人前で話すこともさせてもらいました。

 個人的には、子育てなども相談窓口があるように、「高齢者虐待防止法」が施行され、その条文の中に「介護者の支援」が明言もされていますし、その「相談窓口」の必要性に関しては、反対する人には会ったことがなかったので、仕事を始めた頃には、こうした相談窓口は、増えていくに違いないと思っていました。

 私にとっての誤算は、この10年で、介護者支援のための相談窓口は、ほとんど増えないことでした。もしかしたら、減っているかもしれません。

 確かに、地域包括支援センターはできて、その認知度は高まり、その中で「介護相談」が行われているのは知っていましたし、場合によっては、介護者支援につながっていることもあり、そこで救われるような思いになっている介護者の方も少なくないと思います。

 それでも、そうした窓口は、介護を受ける方々(要介護者)が主体で、どのように介護をはじめ、続けていくか、といったことが中心で、それは、その場所で正しいことだと思います。

 それも本当に必要なことなのは間違いありませんが、介護者を中心にし、具体的に解決ができない時間の中での苦しさや、介護サービスを使えない中での辛さや、介護をやめたい思いといったことまで扱えるのは、「介護者の心理的なサポートをするために設置された相談窓口」の方で、より効果的な支援が行えるはずです。

 それは、実際に「介護者相談」を10年間行なっていて、実感していますし、潜在的な需要の多さも感じています。

 でも、そうした「介護者の心理的支援を主な目的」とした、介護者のための相談窓口の必要性は、社会の中に広く理解してもらうことはできないままです。

 そのため、そうした介護者支援の話をすると、家族会があるし、認知症カフェもあるので、といった話もされるようになり、確かにそうした試みは素晴らしいし、必要でもあるのですが、そうしたグループでは話せない人もいますし、話せないことがあるのも事実です。

 ですから、認知症700万人といわれる時代に、介護をされる側だけではなく、「ケアする人へのケアの必要性」は語られるようになっているのに、公的な介護者のための相談窓口が、これだけ少ないというのは、それだけ社会に必要性が理解されていないことだと思います。

 ただ、個別に話すと、必要性を理解してもらえるのに、社会的には認知されていないということを目の当たりにし続けていると、ただ、自分の無力感が強くなる10年間でもありました。

支援する側への誤算

 その一方で、支援する側に対しての誤算は、臨床心理士資格を取得するために、大学院に通っている頃から感じていました。

 入学する前は、これだけ介護のことが社会的に語られているのだから、私の言っていることは専門家にこそ理解してもらえるに違いないと思っていました。

 ただ、想像以上に、無関心でした。

 基本的には、若い人が多い、ということもあるのですが、心理的なサポートや、心理療法での対象は、発達途中の、幼い子どもたちや、若い人たちが中心になっているようでした。

 さらには、社会人に対しての心理的ケアやサポートに関しての話題にも触れることはありましたし、それも一定以上の関心を持たれていました。

 そに比べると、他の大学院では高齢者の心理的支援やケアについてのゼミがあるという話も聞いたのですが、とても限られたことでもあり、それは、とても遠い話に感じました。

 ですので、高齢者関係の仕事に関しての興味も、この臨床心理学の世界ではどうやら少数派のようでしたし、さらには、その中で家族介護者の心理的支援について関心を持っている人は、ほぼいないようでした。

 それは予想外でしたが、若い人が多いのですから、それも当然かもしれないとは思いました。

 あるとき、教授の方と、ここで学んでいる動機と、実際に心理士の資格をとった後の話をする機会がありました。私は、家族介護者の心理的支援をしたい、ということを伝えました。

 その教授は、冷静に、こんな話をしてくれました。

-----あなたのやろうとしていることは、確かに、今後、重要になるし意味もあると思う。だけど、おそらくは臨床心理士の世界では、そのことをやろうとする人は、少ないのではないだろうか。なんていうか、それはとても泥臭いことのはずだから。

 そのころは、その言葉の意味をきちんと理解できてはいませんでした。

 ただ、それから10年以上が経ち、さまざまな同業者の方々と知り合ったり、話をしたり、勉強会をしたり、という中で、私の関わっている「介護者支援」について、興味をもってくれても、自身が関わろうとする人は、ほとんどいませんでした。

 実際に同じような「介護者相談」をされている心理士の方も、そこに主軸を置くのではなく、高齢者支援の一環として関わっている場合が多いようでした。介護者支援については、何しろ継続的に支えることが大事だという話をしても、あまり同意を得られた記憶もありません。

 臨床心理学系の学会で発表などをして、時々、興味をもってくれて、自身の働く場所で、介護者の相談窓口を設置しようとしてくださる方もいらっしゃったのですが、これは臨床心理学の扱う分野ではないのではないか、と言われたりしたこともありました。

 介護者の支援について、関心を持ってもらおうと、口頭発表をしても、そこから広がりを持つことは、ほぼありませんでした。

 大学院に通っている頃に、介護者の心理的支援に関わろうとする臨床心理士は少ないかもしれない、という教授の言葉が、以前よりわかってきたように思います。

介護者の心理的支援の特徴

 家族介護者の心理状況は、基本的には、災害時のように「異常な状況での正常な反応」に近く、だから、決して病的な状態とは言えないはずです。

 そして、心理的支援に手を尽くし、それがうまくいったとしても、現状維持が限度で、それ以上に精神的に状態が良くなるのが難しいのは、介護はずっと続いていて、その精神的に厳しい環境は変えることがほとんどできないからです。

 だから、一回や数回関わっただけで、変化の兆しがあることはなく、ただ、地道な支援がずっと続くだけです。場合によっては、5年以上続くことも珍しくありません。

 そして、その支援に意味があるかどうかは、その支援を、介護者の都合ではなく、支援者側の都合で打ち切った後に、介護者が状態が悪くなった時に分かるはずですが、倫理的に、そうしたことはできるはずもありません。

 だから、今後も、臨床心理士が大勢関わるかどうかには、希望が持てません。それで今、介護に関わっていて、介護者の心理的支援に興味がある人に対して、心理的な支援をしてもらおうと思って、介護施設の知り合いに、公認心理師の資格のこと、受験資格に関しての資料をコピーして何部か作り、どなたか興味がありそうな方に渡してもらえますか?と手渡したこともあります。

 それでも、介護者の心理的支援に関して、専門家の方々が大勢関わり始めようとしている、といったことは、私が無知なだけかもしれませんが、聞いたことがありません。

理解

“私もそうだったように、正しいことを言われても励まされても、体験談を聞かされても、何の役にも立ちませんよね。認知症の人だけでなく、介護者の心のことをもっとよく知ってもらいたいですよね。そっとつらい胸の内を話せる安全な場所と信頼しあえる仲間がほしいですよね。レスパイトもいいけれど、ただ話を聞いてもらいたいですよね」(大阪府・女性・47歳)。”

(「死なないで!殺さないで!生きよう!」より)

 自分が、ただ介護をしていた時も、学校に通っていた頃も、支援の仕事を始めてからも、こうした声はかなりよく聞いた気がします。

 それは、自分自身が、孤立感や孤独感と共に介護をしている時に思っていたこととかなり近く、それは「理解してほしい」ということでした。

 何かのアンケートでも、家族介護者が望むこと、という項目で、休息や、自分の時間よりも、関係者に理解してほしい、といったことを希望する介護者が多かったという結果も見たことがあり、それについて、納得できたことを覚えています。

 私が、介護者相談で心がけていることも、まずは聞くこと。そのことによって、その目の前にいる人の気持ちを理解しようとすること。それが基本になっています。もし、そのことがある程度以上、できたとすれば、少なくとも介護者の方の孤独感は、少しでも減るはずで、本当に落ち込んだり、もしくは自暴自棄になることを防げる可能性が出てくるはずです。

 ただ、介護者支援を行う場合、そういうことに気をつけている、という話を聞いた記憶があまりありません。

 これまで読んできた介護者の心理に関する論文も、まだ読む本数が少なく、その上で理解力も不足しているのかもしれませんが、どうしてこんなふうに家族介護者の心理の理解から遠いのだろう、という怒りのようなものを感じたりすることも少なくありませんでした。

 在宅介護から、施設入所をせざるを得ない状況に対して、在宅介護の破綻、という単語を選んだりする専門家や、現在、介護をする方々に対して、まずは、虐待とは何か?という心理教育を始め、そのことによって、要介護者への思いが返って悪化した、という分析をしている研究者もいました。

専門家の言葉

 そんな中で、私の狭い知識の範囲内ですし。生意気かもしれませんが、介護者のことを「理解」しているのではないか、と思われる学者や研究者の方もいました。

 例えば、医療人類学の研究者は、自身の経験をもとに、こうした介護者への「理解」を語っています。私も、この内容には同意できます。

ケアをすることは容易ではない。時間やエネルギー、財源を費やし、体力や決断力を奪い去る。それはまた、ケアをすることで効果があるとか希望が持てるといったごく素朴な思いに大きな疑問符をいくつも付すのだ。ケアをすることは苦痛や絶望を募らせ、自己を引き裂く。家族にも葛藤をもたらし、ケアのできない者やしない者とケアをする者との間に溝を作ってしまう。ケアはきわめて困難な実践なのである。専門である医学や看護の諸モデルが提案するよりもはるかに複雑かつ不確かであり、専門領域に限定されない実践なのである。というのも、わたしにとっては、ケアをすることの道徳的・人間的な中核は決して精神科医であり医療人類学者である自身の専門家としての仕事から得られたものではないし、主として研究論文や自分の研究から得られたものでもないからである。わたしにとってのケアをすることの道徳的・人間的な中核は、何よりもまずジョージ・クラインマンのケアをする第一の存在として始まった。自分自身の新たな暮らしから得られたのである。

(「ケアすることの意味」より)

 こうして納得できる分析をしているのが、自身も介護者だった経験を持つ医療人類学者(アーサー・クラインマン)と、さらには、長年、介護の当事者と関わってきた心理の専門家(ポーリン・ボス)だったことは、偶然ではないように思います。

「家族に介護者適性テストを受けさせられました。夫のほうを何とかしないといけないのに、鬱病だと言われてしまいました」。彼女は自分の診断結果に深く傷ついていました。
 注意して彼女の話を聞いたところ、友人関係の人脈はとてつもなく広く、家族も社会的支援も彼女との繋がりを保っていますし、本人に活力があり、楽観とユーモアを忘れないことから、鬱状態には見えません。ただ、一つ言えるのは、彼女が悲しみ、悲嘆の状態にあるということです。

彼女にとって、鬱病という診断は、自分の側に欠陥があることを意味しました。けれども、悲しみ、嘆いていると言われれば、自分は正常だと受け取れました。そうであれば納得できましたし、これからやって来ることに耐えるために、より強くなれる気がしました。

多くの介護者が、「病気だ」と見なされるのは嫌だと語ってくれました。鬱病の診断を受けると、介護者は不本意だと感じることが多いのです。その診断によって、愛する人の世話が今までのようにできないかのように、自分を落伍者のように思ってしまうのです。

(「認知症の人を愛すること」より)

 例えば、介護者の状況を判断するときに、「介護うつ」かどうか?といったことを、かなり重視する専門家の言説も何度も見たことがありますが、そのことについては、ずっと疑問がありました。

 介護を続けている人であれば、診察や検査をしたとしたら、おそらくかなりのパーセンテージで、「うつ」の診断をされるのではないかと思っていましたし、今も思っています。自分自身も、辛い時は、確実に「抑うつ状態」だったと思います。

 だから、問題なのは、なるべくそういう状況にならないように支援するか。もしくは、介護者がそういう状況であることを前提に支援することではないかと思います。

 ですので、ポーリン・ボスが書いているような、介護者の気持ちを尊重する支援をするべきだと考えています。

認知症の悲嘆を抱える人の立場は不利になります。愛する人の認知症からもたらされる喪失は止まることなく、長年にわたることもありますから、悲しみを乗り越えたり、悲嘆し終えたりはできません。何も悪くなくても、悲しみが慢性的なものになるのです。

介護を担うあらゆる人にとって、それは、以前のままの愛する人を失い、それまでの関係が失せ、夜安らかに眠るという基本的な欲求を奪われ、夢と目標を失い、人生のその段階で当然得られるべき余暇の時をなくし、自分自身の人生を自分の手で思うように動かすできなくなることにほぼ等しいのです。この次々と訪れる喪失によって、介護者が弱っていくのは容易に理解できますが、外部の人間にはそれがほとんどわからないのです。

介護者にのしかかる言葉にならない負担の一つは、親類にせよ専門職の人たちにせよ、他者から下される判断ではないかと思います。たいていの介護者はこうした判断が、結果としてストレスが増すだけだと気づいています。

私の知見からすると、介護者が慢性的な悲哀を抱えていることが孤立の原因になります。そうした悲しみに恐れを感じて、人々が距離を置くのです。(中略)周囲は悲しみを鬱という名で片付け、孤立から楽にしてあげるような手は何も打たないことがよくあります。

(「認知症の人を愛すること」より)

 こうした家族介護者の心理、特に認知症の方を介護する介護者の気持ちについて、ここに書かれていることだけでも理解している専門家が、どれだけいるのでしょうか?

介護者の心理的支援の必要性

 私も、こうした介護者の孤立感や孤独感を少しでも和らげるためにも、介護者専門の相談窓口の設置は必須ではないかと思ってきました。それは、実際に、そうした相談を続けながらも思っていましたし、介護殺人などの事件が起きるたび、介護者への支援をなんとかしなければならない、という論調が語られていますが、具体的に、何が行われたのか、記憶にありません。そう言われ続けて、20年が経っています。

 この間に本格的に力を入れていないことの一つは、家族介護者への個別の心理的支援だと思います。そのためには、相談窓口を各市区町村に設置することを義務付けるべきです。相談者は無料で、きちんとした(できれば心理の専門家の)相談を受けられる機会があれば、現在の過酷な介護環境は、少なくとも心理的に改善できるはずです。

認知症を抱えた愛する人を介護する時、怒りや罪を感じ、さらにはすべてが終ってほしいと思うのは、正常なことなのです。その場合、すべてが終ってほしいというまでの気持になってしまっていることを、同じ境遇にある人や専門職の人と話す機会を必ず作ってください。

(「認知症の人を愛すること」より)

 アーサー・クラインマンの書籍も、ポーリン・ボスの著作も、日本語に訳され出版され、かなりの年月が経っているのに、こうした言葉は、介護に関わる専門家の間でも、まだ常識の一つになっているように思えません。

 相談窓口の効果測定云々の前に、包括支援センターでの介護相談や、家族会や、認知症カフェだけではなく、今までほとんど行われてこなかった介護者の個別の心理的な相談のための窓口を、各市区町村に設置してほしい。


(東京都・台東区には、こうした介護者のための相談の窓口があります。↓こうした相談窓口は、東京23区でも半分もないのが現状だと思います)。

 
 そして、実際に介護者相談を実施する支援者の一人としては(台東区ではありません)、こうした相談窓口を設置することが、不遜かもしれませんが、介護殺人事件を減らす可能性のある方法の一つだと、思っています。

妻はそれから、1か月の間、「死にたい」と何度も泣きながら男性に訴え、自分の手で首を絞めるようにまでなった。
 なぜ、追い詰められる前に、誰かに相談できなかったのか-----そう尋ねると、男性は、相談したくても、どこに相談していいのか分からなかったという。
「僕たち夫婦は、一体どこに行けば良かったんですか」
 泣き叫ぶ男性。取材班も、どうにもできないもどかしさが募った。

(「母親に、死んで欲しい」より)

 実際に、この人が介護者相談に来たとしても、この事件を止められたかどうかは分かりませんし、そうした仮定をすること自体が、失礼なことだと思います。それでも、家族介護者が、どんなことでも話をしてもいい、といった安心できる場所があれば、という気持ちにはなります。

 ただ話を聞いてくれる場所は、家族介護者にとっては、現時点ではあまりにも少ないからです。

 そして、自分の能力を超えているのかもしれませんが、介護殺人や介護心中を一件でも減らしたい気持ちは、今でも持続しています。そのために、介護者の個別の心理的支援のための窓口を一つでも増やしたい、という目標は、それほど見当違いではない、という確信はずっとあります。

 ただ、実際は、そうした窓口が増えていく、といった変化はなく、もどかしさと無力感は、この10年、ずっと感じ続けてきました。

これからのこと

 介護者支援の必要性を、微力とはいえ、伝え続けて10年経っても、何か、誰も聞いてくれない場所で、自分だけが必死になっているような気がして、どうしたらいいのかわからないこともあり、だから、介護者に対する個別の心理的支援の必要性を少しでも伝えようとして、このnoteも始めました。

 読んでくださる方や、コメントを書き込んでくれる人もいて、とてもありがたく思っています。

 それでも、この3年間はコロナ禍ということもあり、施設での「通い介護」をしている家族介護者にとっては、会いたくても会えない焦りや不安などがとても高く、もちろん在宅介護を続けていらっしゃる介護者の方にとっても、普段の負担や負担感に加え、コロナ感染への恐怖が加わり、より大変な日々が続いていると思います。

「老いは誰もが等しく迎えることだから恥ずかしいことでもなんでもない」と言います。そして、SOSを発してもいいのに家族で閉じこもってしまうと周囲からは「うまくやっている」と見られ、余計に手が届きにくくなってしまうだけに、「早い段階で、老いを自覚した段階で相談してほしい」と声を大にします。
介護についての相談窓口としては「地域包括支援センター」があり、支援に関しても施設に入るだけでなくさまざまなものがあるそうで、「1人で抱え込むのではなく、家族だけでなく専門家にぜひ相談してほしい」と長友さんはアドバイス。

(『TOKYO MX +」より)

 しかし、現時点では、相談する場所が足りないと思います。基本的には要介護者のための「地域包括支援センター」だけに頼るのも、無理があるように感じています。

 そして、こうした「専門家に相談してほしい」といったアドバイスは、20年間、ずっと変わらずにされてきたように思います。ただ、「介護者」のための相談窓口は増えていません。

 さらに、例えば「一人で抱え込まない」という言葉が、場合によっては、家族介護者を追い込むこともあるといった常識も定着していないままです。

(現在、一人で介護をせざるを得ない状況にいる家族介護者にとっては「一人で抱え込まない」というアドバイスが、現在の自分への否定に聞こえてもおかしくありません)

 
 これは、家族介護者の心理が理解されていないことの象徴のように思えています。


 

政策課題

 その一方で、「ヤングケアラー支援」は、具体的に動き始めています。

 それは、素晴らしいことですが、さらに多数の、ヤング以外のケアラー(家族介護者)の支援は、進まないままです。

 介護者支援に関しては、イギリスの例がよくあがりますが、最初に介護者(ケアラー)全体への支援があって、そこでさまざまなノウハウの蓄積があってからの、ヤングケアラーの支援なので、日本では逆になるかもしれませんが、それでも、介護者全体の支援をもっと始めてほしい、と思っています。

 ただ、まだ変化の兆しはありません。

 それでも、政策課題になることで、その支援は形になるのは間違いないのを見せてもらったと思いますし、ヤングケアラーの支援はきちんと当事者の方々の力になるように運営してもらうように願うしかなさそうですし、もちろん、機会があればヤングケアラーも介護者であるのは間違いないので、(シニアとの違いに注意深くありながら)私にも、支援をさせてもらいたい気持ちもあります。

 これからも、介護者の心理的支援の実践は行い続けながらも、家族介護者の心理的支援の必要性は訴え続けます。その上で、そのことと、もちろん関連しているのですが、介護殺人事件や介護心中を減らすために、機会があれば、市区町村に家族介護者のための相談窓口を設けることも提案し続けようと思います。

 これまでに「地域包括支援センター」に「介護相談」は存在し、根付いていているとは思うのですが、それとは別に「介護者相談」の場所を設置することが、今後は必須だと考えています。

 そのために、もう少し積極的に具体的なことをお伝えしていく必要があるとも思いますので、それはこのnoteで、今後も試みたいと考えています。



(他にも、いろいろと介護について、書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。





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越智誠  臨床心理士/公認心理師  『家族介護者支援note』
 この記事を読んでくださり、ありがとうございました。もし、お役に立ったり、面白いと感じたりしたとき、よろしかったら、無理のない範囲でサポートをしていただければ、と思っています。この『家族介護者支援note』を書き続けるための力になります。  よろしくお願いいたします。