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『「介護時間の光景」』(106)「犬」。4.26.

    いつも読んでくださる方は、ありがとうございます。
 そのおかげで、こうして書き続けることができています。

 初めて、読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


(この『「介護時間」の光景』を、いつも読んでくださってる方は、「2007年4月26日」から読んでいただければ、これまで読んで下さったこととの、繰り返しを避けられるかと思います)。

自己紹介

 元々、私は家族介護者でした。介護を始めてから、介護離職をせざるを得なくなり、介護に専念する年月の中で、家族介護者にこそ、特に心理的なサポートが必要だと思うようになりました。

 ただ、そうした支援をしている専門家が、自分の無知のせいもあり、いるかどうか分からなかったので、自分で少しでも支援をしようと思うようになりました。

 そして、分不相応かもしれませんが、介護をしながら、学校へも通い、臨床心理士の資格を取りました。2019年には公認心理師資格も取得しました。現在は、家族介護者のための、介護相談も続けることが出来ています。

「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的なことで、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。

 今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2007年4月26日」のことです。終盤に、今日、2022年4月26日のことを書いています。


(この「介護時間」の光景シリーズでは、特に前半部分の過去の文章は、その時のメモをほぼそのまま載せています。希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば幸いです)

2007年の頃

 1999年から介護が始まり、2000年に、母は入院したのですが、私は、ただ病院に毎日のように通い、家に帰ってきてからは、妻と一緒に義母の介護を続けていました。

 土の中で息を潜めるような生活が続き、だんだん慣れてきて、4年が経つ頃、2004年に母にガンが見つかり、手術し、いったんは症状はおさまっていたのですが、翌年に再発し、それ以上の治療は難しい状態でした。

 そのため、なるべく外出をしたり、旅行をしたりしていました。

 2007年の2月には、母の希望していた熱海に旅行に行けたのですが、その後は体調が整わず、さらに不安が大きくなっている頃でした。

 ほぼ毎日、病院に通っていました。


2007年4月26日

昨日は水戸へ行ってすごく楽しかった。
 ありがたかった。

 いつものバスに乗る。

 病院に着いたら、母はベッドの上で、何もかけずにぐったりしていた。
 横に倒れているように見える。
 
 カーディガンも、靴下も履いたまま、ぼんやりしている。今日は、おやつの集まりに行ったそうだ。

 何かぼんやりしている。仕方ないけれど。

 熱があるようで、測ると37・7度あって、やっぱりと思う。
 
 それでも、何かしらの薬を飲んだりしているようだけど、何しろ安静にしていて、夕食はひと口食べて、う、う、う、う、う、う、と吐きそうな感じになっている。

 何か、あれこれとボロボロで、なんだか悲しくなる。

 水枕にしてもらうようにお願いする。

 食事は、10分くらいで、終わる。

 何か暗いし、何か悲しくなる。

 午後7時に病院を出る」。



 電車の車内。

 がたん。
 きゃうん。きゃうん。きゃうん。

 犬が危害を加えられて、逃げる時に出すような声。

 後ろから、それが聞こえたから振り返って、座席から立ち上がって、少し見回しても、犬はいない。人の声のようにも思えたけれど、何のトラブルもなさそうだった。ペットを持ち込むような大きいカバンを持っている人もいない。

 座った後も気になるので、またしばらく見ていた。

 車両を連結してあるところにドアがある。
 そこをあけて、がたんと音がして、人が通り、閉める時に、きゃうん。きゃうん。きゃうん。と音がする。

 原因が分かったとしても、そして、その音が出るのを何度か確認したのだけど、そこの場所から、そんな音が聞こえてきたのは初めてだった。その場所から、ちょっと距離があるから、よけいに犬のような声に感じたのかもしれない、などとも思ったけれど。

                    (2007年4月26日)


 母は、2007年の5月に病院で亡くなった。
 その後も、義母の介護は続いたが、2018年の年末に、義母が、103歳で突然亡くなり、急に介護が終わった。

 自分自身の体調を整えるのに、思った以上の時間がかかり、そのうちにコロナ禍になった。


2022年4月26日

 薄曇り。
 このところ暑かったり、肌寒かったり、晴れたり、雨が降ったりと変化が多い。

 菜種梅雨という名前があったはずだった。

 洗濯に迷ったけれど、干す場所があるから、妻と相談して洗濯を始めた。

雑草

 庭に小さい花が咲き始めている。
 妻が、雑草が好きなので、あちこちに植えてある。
 花が咲くと、色が増えて、急に春らしくなる。

 妻に名前を聞いた。

 黄色いのは、カタバミ。白い花もある。
 コバノタツナミソウは、白と藤色。
 オニタビラコは、黄色い小さい花。
 ヒメツルソバは、ピンク。

 庭のあちこちに咲いていて、やっぱり、少しにぎやかな感じになる。

 アメリカフウロは、つぼみがいっぱいあるので、これから咲く、と妻に教えてもらう。

 さらに、花が増えていくようだ。

セルフカット

 自分で自分の髪を切るようになって40年以上が経つ。
 最初の半年は、特にひどい仕上がりだったけれど、それをガマンして、さらに続けたら、特に器用でもないのだけど、なんとか人から見て、おかしくないようなレベルになってきた。

 本当は、よく見ると、あちこちガチャガチャしているのだけど、天然パーマで勝手にウェーブがかかるので、それも目立たなくなるので、ここまで切ってこれたのだと思う。ハサミとスキバサミのセットは、結婚する頃に買いかえた。

カット&カラー

 母親が入院していて、その病院に通い続けた時期があった。
 母は、病院でカットをしてくれるのだけど、それが髪が短すぎるので、と不満だったらしく、そのことを聞いて、病院とも相談して、私がカットすることになった。

 義母も、100歳を迎える頃には、近所の美容院に行くのも、しんどくなったせいもあり、私がカットするようになった。

 そして、コロナ禍になり、喘息の持病を持っているせいもあって、妻は美容院に行きづらくなった頃、最初は前髪から、その後は、全体のカットも私が担当するようになった。最初は、おっかなびっくりだけど、何度かするうちに少し慣れてきた。

   妻の髪質は、しっかりしていて、元気なので、カットしやすい。その後に、髪を染めるのだけど、それも手伝ったのが、昨日だった。

   毎回、ヘアカラーは、ボトルから出た後は白いのに、だんだん色づくのが不思議だけど、カットして染めた次の日に、カットの出来具合いが、より分かるので、ひそかにドキドキもしているのだけど、今日は、鏡を見た妻も、頭が軽くなった、と機嫌がよかった。

   ホッとしている。

   どうせ染めるのならば、金髪はどう?とすすめているのだけど、なかなか乗ってくれない。それはこれまで一度もパーマをかけたり、染めたりしたことがない自分の思いが投影されているのも分かっているのだけど、なんとなく似合いそうな気がしているので、今後も、あきらめずに、時々、声をかけようと、こっそり思っている。






(他にも、いろいろと介護のことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえると、うれしいです)。



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