見出し画像

『「介護時間」の光景』(185)「寒さ」「景色」。12.10。

 いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。

(※この「介護時間の光景」シリーズを、いつも読んでくださっている方は、よろしければ、「2001年12月10日」から読んでいただければ、これまでとの重複を避けられるかと思います)。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、私自身が、家族介護者として、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的で、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。

 今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2001年12月10日」のことです。終盤に、今日「2023年12月10日」のことを書いています。

 
(※この『「介護時間」の光景』では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。

2001年の頃

 個人的で、しかも昔の話ですが、1999年に母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。妻の母親にも、介護が必要になってきました。

 仕事もやめ、帰ってきてからは、妻と一緒に、義母(妻の母親)の介護をする毎日でした。

 入院してもらってからも、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。

 だから、また、いつ症状が悪くなり会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。

 それに、この療養型の病院に来る前、それまで母親が長年通っていた病院で、いろいろとひどい目にあったこともあって、医療関係者全般を、まだ信じられませんでした。大げさにいえば外へ出れば、周りの全部が敵に見えていました。

 ただ介護をして、土の中で息をひそめるような日々でした。私自身は、2000年の夏に心臓の発作を起こし、「過労死一歩手前。今度、無理すると死にますよ」と医師に言われていました。そのせいか、1年が経つころでも、時々、めまいに襲われていました。それが2001年の頃でした。

 周りのことは見えていなかったと思いますが、それでも、毎日の、身の回りの些細なことを、メモしていました。

2001年12月10日

『今日は、昨日の夜に介護だけではなく、いつもよりも遅くまでサッカーを見ていたので、12時頃まで起きられなかったのだけど、それほど気分は悪くなかった。

 午後4時15分頃に病院に着く。

 母がクッションを持って、部屋へ歩いていくのが見えた。

 病室の小さな机の上のメモに、駅名と、回数券、定期券など、いろいろな固有名詞が書いてあった。

 なんのことかと聞いてみたら、私が電車に乗ってきているのは知っているので、「回数券使った方がいいんじゃないの?」と言ってくれたのだけど、「今も、使っているよ。考えれくれて、ありがとう」と答えるしかなかった。

 この病院に通い始めて、もう1年以上が経つ。

 年賀状を書きたいと言っていたので、いろいろと用意して持っていって、今日は、母は、スタンプを5枚押した。

 午後4時50分頃、トイレに行った。

 窓ガラスが、めちゃくちゃ曇っている。外が寒いせいだと思う。

 午後5時25分にまたトイレへ行く。

 年賀状は、また押したので、結局、8枚になった。

 夕食は、午後6時に終わったのだけど、今日は25分だった。割と早めだったのだけど、そのあとにすぐにトイレは行った。

 病室のテレビで一緒にニュースをみていたら、田代まさしの事件のことをやっていた。母は「シャネルズ」のことは知っていた。

 午後6時40分に、またトイレへ行った。

 今日は、買って行った不二家のプリンを一緒に食べて、それは喜んでくれたのだけど、このところ、よく買っていく「花時間」という雑誌は買ったのだけど、反応はイマイチだった。

 午後7時に病院を出る』。

寒さ

 病院を出た瞬間に寒さを感じる。

 ついちょっと前に寒いと思った時は、それが固体のような感触だったけど、今日の寒さは、体にまとわりつくような、細かい粒子というよりは液体に近く、上着も着ているのに、どこか気がつかないようなすき間があって、そこから体にしみ込んでくるような感じがした。

景色

 午後7時20分。いつもの送迎バスに乗る。もう、まっくらだった。

 出発して3分くらいで、軽い渋滞にはまる。

 周りは、緑と、人工物が、工事中の場所もあるせいか、いつもよりも変に混ざっている。そして、そのさらに周囲は暗い林。いつもは、ただすーっと通り過ぎていただけの景色。なんだか、ここどこなんだろう?と、どうしようもなく不安になった、去年、ここの病院に来た時の気持ちと、また重なる。

                        (2001年12月10日)


 それからも、その生活は続き、いつ終わるか分からない気持ちで過ごした。

 だが、2007年に母が病院で亡くなり「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。
 2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、19年間、妻と一緒に取り組んできた介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格も取得できた。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。


2023年12月10日。

 先週、私は急に体調が悪くなって、妻に心配をかけたが、次の日にはなんとか回復していた。

 ただ、今週は、自分としては珍しく、出かける日が多く、それだけで疲れているようで、なんだか情けないような気がしていた。

 これでは、体の弱さを再確認したような気持ちにもなり、これからも人並みに働けないかもしれない、と改めて思った。

 そのあとは、週末に妻が体調が悪くなって、それは、とても心配なことだったのだけど、今日になって、録画したドラマを一緒に見られるようになるくらい、回復してきて、かなり安心もした。

 ドラマを見ながら、妻は泣いていた。それは、やっぱり少しは元気になった証拠のように思えて、ホッとした。

 そのあとは、日曜日なので病院も行けず、今はまだどんな症状かもはっきりしないのだけど、とにかく感染するかもしれないから、という妻の気持ちも強いので、2階と1階で、別々に過ごす時間も長い1日になった。

 洗濯は2回できた。
 日差しは季節としては、かなり強いように感じた。

 柿の木は、ほとんど葉っぱがなくなっていた。

介護者支援について

 先週は、幸いなことに、特に若い方達に対して、介護のことを伝えることができた。

 内容的には、認知症のことと、家族介護者の支援のことも話すことができた。

 それは、本当にありがたい機会だったし、この10年間、機会があれば、こうした話をしてきたのだけど、社会は変わらないと思い続けてもきて、でも、それは、まだ話すことが、全然足りないのだろうとも思った。

 ただ、一人では本当にできることも限られているので、こうした内容を書籍にしたいと、出版社に企画書を送ることも継続しているのだけど、今のところ、それが実現するような感触はない。無力感は強い。

 でも、続けることしか、とりあえず、できない。



 


(他にもいろいろと介護のことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




#介護相談       #臨床心理士   #私の仕事
#公認心理師    #家族介護者への心理的支援    #介護
#心理学        #介護 #自己紹介 #通い介護

#家族介護者   #臨床心理学   #介護者相談
#介護負担感の軽減    #介護負担の軽減
#家族介護者支援    #在宅介護
#家族介護者の心理  
#心理的支援への理解   #認知症 #認知症介護
#あの選択をしたから
#介護施設






この記事が参加している募集

 この記事を読んでくださり、ありがとうございました。もし、お役に立ったり、面白いと感じたりしたとき、よろしかったら、無理のない範囲でサポートをしていただければ、と思っています。この『家族介護者支援note』を書き続けるための力になります。  よろしくお願いいたします。