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「介護booksセレクト」㉒『認知症の私から見える社会』

 いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。
 おかげで、こうして書き続けることができています。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/ 公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


「介護books セレクト」

 当初は、いろいろな環境や、様々な状況にいらっしゃる方々に向けて、「介護books」として、毎回、書籍を複数冊、紹介させていただいていました。

 その後、自分の能力や情報力の不足を感じ、毎回、複数冊の書籍の紹介ができないと思い、いったんは終了しました。

 それでも、広く紹介したいと思える本を読んだりすることもあり、今後は、一冊でも紹介したい本がある時は、お伝えしようと思い、このシリーズを「介護booksセレクト」として、復活し、継続することにしました。

 今回は、認知症の当事者の方が、ご自身の経験をもとにして、家族や専門家や社会に向けて、伝えたいことを記した著書を紹介したいと思います。

当事者の声

 若年性認知症の当事者の人たちが登壇し、講演をする機会があって、2回ほど、そこに聴衆として参加したことがあります。

 話が終わって、質問のコーナーになると、同じような言葉が登壇者に投げかけられていました。

 とても認知症には思えません。

 認知症が治るのを初めて知りました。

 そうした質問や感想にも、登壇者は丁寧に答えていたのですが、それは善意とはいえ、認知症の実態がかなり誤って広まっていることも表しているような気がしました。

 同時に、何しろ、こうして当事者の声を聞く機会自体が、とても少ないのを改めて感じ、そのことで、認知症への理解が進みにくいのも改めて思いました。

 私自身は、もちろん、介護をしていたときは、毎日のように声を聞いてはいたのですが、後から考えたら、その関係だと、おそらくは本人は、言いづらいことがたくさんあるのだろうとも思ってはいました。

 そうした講演の機会は少ないので、私も質問をさせてもらったのは、言われて嫌なことはなんですか?でした。

 その質問にも登壇者の方は、丁寧に答えてくれたのですが、それは、何か失敗をしたり、忘れたりすると、「認知症だから」と言われることのようでした。

 言われてみると、当然のことのようですが、それでも、私自身もつい言ってしまいそうなことだったので、それ以来、気をつけるようになりましたし、人にも機会があれば伝えることにしています。

『認知症の私から見える社会』  丹野智文

 この本は、30代後半で若年性認知症と診断されたのですが、配置換えなどの配慮もありながら会社の勤務を続け、同時に、認知症への啓発のために講演なども続けている著者が書いた書籍です。

 しかも、各地の同じ症状と診断された仲間たちの話も数多く聞いているので、(これはおそらく当事者同士でしか話せないことが多いと感じましたが)とても貴重な記録であるのも間違いありません。

 ただ、率直に語られている分だけ、もしかしたら、現在、家族を介護されている家族介護者の方にとっては、一読した時は、ちょっとショックな内容にもなっているかもしれませんので、もし、介護をされていて今は余裕がない方は、読む時には注意が必要だとは感じましたが、同時に、それだけに、仕事として介護に関わられている専門家には必読の書だとも思いました。

「認知症の本人の意見を聞いて欲しい」と発信した時に、なぜ、すぐに進行した人の話を持ってくるのでしょうか。私の活動は、これから認知症になる人や診断されて落ち込んでいる人が、困らないようにするための活動です。
 当事者の暮らしは、診断後、初期の段階から自分で決めて工夫しながら行動している当事者と、診断直後から「認知症だからできない」と決めつけられて、制限や監視の環境のもとで生活するようになった当事者とでは、明らかにその後の進行や暮らしぶりが違うのです。

(『認知症の私から見える社会』より)

 これも言われてみれば、ごく当然のことのようにも思えます。認知症の初期と、進行した症状では、全く違ってきますし、環境によって、その症状の進み方も変わってくるはずです。

 でも、今の「認知症」の症状に関しての情報は、多くは医師や看護師といった医療関係者を通しての「認知症の姿」から、理解が広まってきているのが現状ではないでしょうか。

 だから、こうした当事者の、無理解への怒りがベースにある言葉を生んでしまうのは、社会の「認知症への理解」が、まだ進んでいないことの証明かもしれませんが、でも、その「理解」というものが、実は認知症の当事者に話を聞いた上での「理解」ではないことが多い。それが、問題なのかもしれません。

「『忘れたの?』『さっきも言ったでしょ』『また』。これらの言葉がいちばん嫌な言葉」

 忘れたくて忘れているわけでもないし、悪気があって訊いているわけでもないのに、いつも嫌な顔をされるので訊くのが怖くなるし、何もやりたくなってきた。何もしないでおとなしくしていたほうがお互いに幸せかもと最近は思う。
 認知症になってから嫌な言葉を毎日言われているようだ。

(『認知症の私から見える社会』より)

 こうした言葉は、著者が当事者の言葉を記録したものです。
 これらは、介護に携わる家族や、専門家には、とても言いにくいことだと思います。

 それでも、やはり、こうした思いを、認知症の当事者に、どうすればさせないで済むか?は、やはり今後も考えていくべきことだとも思いました。

当事者と家族

 ここからは、特に家族の介護をされている家族介護者の方にとっては、ショックな内容かもしれませんし、私も最初は、なんとも言えない無力感のようなものにも襲われました。

 だから、もし、現状で気持ちに余裕がない家族を介護されている方は、ここからは積極的に読むことは勧めにくいのですが、それでも、まずは当事者が何を思い、何を感じ、何かを考えているのかを知りたいと思った方には、読み進めていただきたいと考えています。

 私が出会ってきた当事者たちの言葉でいちばん多かったのは「家族がいちいちうるさい、すべてを奪われた」でした。そのような場には、支援者もいることが多いのですが、「家族がうるさい、奪われた」という当事者の困りごとに支援者は「家族は心配なのです」「あなたのことを思って言っているのです」というような言葉を返します。そうなると、当事者は、家族に世間体を気にしての「普通でいて欲しい」という気持ちを押し付けられていると感じ、つらいだけの経験になってしまいます。
 支援者の人たちにお願いがあります。当事者と家族が一緒に来ていて、話を聞く時には、家族と当事者を分けて、離れた場所でそれぞれの話を聞くことをお勧めします。
 分けることで当事者も安心して話をしてくれます。聞き方も世間話から入るなど、安心して話ができる状況を工夫してください。

 とにかく、当事者の思いをきちんと聞かれる機会が少ないことは、改めて気がつかされます。同時に、家族介護者の思いを聞いてくれる場所も、今もほとんどないことにも思いが至ります。

 私が一緒に活動してきた仲間の当事者の中には、本人の意思とは関係なく精神科病院に入れられて数カ月で亡くなられた人がいます。

当事者には説明がないことが多くあります。

 不安でいっぱいだった当時、どこに相談しても介護保険の話でした。メディアでは「初期でも暴れる」や「徘徊する」というような情報ばかりで、認知症は診断直後から介護の対象としか見られていないと感じました。

 当事者の思いに対して、本当に細やかに聞いて、それを実現させることは、現状では、おそらく相当の困難があるのだろうとは思いますが、改めて指摘されると、本当にそうだと思います。

 認知症の場合で考えると、ケアマネージャーが家族の意見だけを聞いて良かれと思って作り上げたケアプランにより、介護保険サービスに当事者が当てはめられてしまうことが多いように思います。そして、当事者を無視して作られたケアプランに書かれているデイサービスへ行くのを「嫌だ」と言うと「拒否」と言われます。
 家族は、当事者が嫌だと思っても、ケアマネージャーの勧めるプランを望んでいるため、当事者を説得するようになります。そして、自分たちで説得できない時は、医者にまで「デイサービスに行くように説得してください」とお願いします。みんなが当事者への説得に入るのです。  

(『認知症の私から見える社会』より)

 家族の側からみると、ずっと家で介護するのは限界で、少しでも(十分に休めるかどうは別としても)認知症の当事者である家族を、どこか安心できる場所で預かってもらい、物理的に距離を置いて少しでも休みたい、という思いがあって、そのような行動に出ているのだとは推測できます。

 同時に、「嫌だ」という当事者の思いを聞いて、だから、介護サービスを使わずに、在宅のみで介護を続ける家族介護者もいることも思い出します。

 その場合の、介護者への負担を考えると、なんとも言えない気持ちにもなりますが、ただ、この書籍を読むと、どれだけ認知症当事者の思いや考えを尊重してこなかったのか、という点について、考え直す必要は本当にあると思いました。

社会環境

 認知症の当事者の方が、迷うように線路に立ち入ってしまい死亡した事故で、その責任が家族にあるとして、鉄道会社から訴えられたことがありました。

 個人的には、新聞などで少し事情を知っただけですが、こうした場合に、当事者の外出を完全に防ぐことは不可能だと思いました。それでも、最高裁まで上告しないと、遺族は勝訴を勝ち取れなかったのですから、その経緯を知って、今も介護をしている人たちへの影響は大きいと思いました。

 こうした(家族への訴訟も含めて)事件があると、特に認知症の当事者を介護している家族は、より緊張感が強くなり、結果として、こういう場面↓を作り出すことになりがちです。

家族は、隣に当事者がいるのに「この人がいると目が離せないので私の時間が全然なくなりました」など、自分の気持ちだけを吐き出すことがあります。

(『認知症の私から見える社会』より)

 認知症になっても安心して暮らせる社会を作ること

 そうした社会環境になれば、家族が心配して、あれこれ言って、行動を制限されることも少なくなり、認知症の当事者の方のストレスも減る可能性は高くなると思います。

 ただ、現状の「冷たい日本社会」から、そうした「認知症の当事者にも寛容」で、しかも、具体的に暮らしやすい生活環境にするために、どれだけの困難があるかと思うと、やや絶望的な気持ちにもなります。

 いままで、認知症当事者を取り巻く環境は、本人の意思とは関係なく、当事者抜きで家族と支援者のみで物事が決められてきました。当事者が「自分で決める」という視点がなかったと思います。そして、良かれと思ってやってきたことが当事者の自立を奪い、気持ちを落ち込ませていたのではないかと思います。   

(『認知症の私から見える社会』より)

 それでも、まずはこうした事実を知って認め、そこから、また考えていくしかないとも思います。

勇気が必要

 著者は、「おわりに」の中で、こうしたことを書いています。

 今回、勇気を出してこの本を書きました。なぜ、勇気が必要だったかというと、この本を読んだ人の中には、これまでやってきたことを否定されているように感じる人がいるかもしれないと思うからです。
 また、「支援者や家族の気持ちの何が当事者にわかるのか」と感じる人もいるのではないかと思います。怒りの感情が湧き出る人もいるかもしれません。しかし、当事者の想いや考えを「批判・非難」するのではなく、みんなが認知症になっても笑って過ごせるように、当事者と一緒に考えてもらえたらうれしいです。

 だから、こうした事実も、きちんと指摘しているのだと思います。

 社会では「認知症になりたくない」という人が大多数で、予防と治療に希望を持っていると思います。政策の「予防」は「進行を遅らせること」「認知症になっても暮らしやすい地域作り」を意味していますが、世間一般の人々は「認知症にならないこと」に対し希望を持っているように感じています。だから、当事者は認知症になってしまったことにより、落伍者のレッテルを貼られ、笑顔になれないのです。
 本当なら社会にとっての希望は「認知症になっても安心して暮らしていけること」でなくてはならないと思います。 

(『認知症の私から見える社会』より)

 このことは、本当にそう思います。

 他にも、専門家であっても耳が痛いことや、認知症と診断されてからサービスに繋がるまでの「空白の期間」が生まれる理由への説得力ある指摘や、当事者としての工夫も、具体的に書かれています。

 当事者の工夫では、ごく一例ですが、忘れないようにメモをしてもメモがどこかに行ってしまう。だから「模造紙をテーブルクロスのようにしている」や、スマホのようなテクノロジーを有効に使う方法などについても書かれていますので、新書版で、200ページに満たないコンパクトな書籍でありながら、情報の密度はかなり高い内容だと感じました。

 それは、認知症の当事者である著者が、工夫を重ね、周囲の協力を得ながら、自力で書き上げたことも、当然関係あるのだと思います。


(こちらは↓、電子書籍版です)。


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