見出し画像

指導者と精神医学(4): ガンジーの憂鬱と残念エピソード

こんにちは!鹿冶梟介(かやほうすけ)です。

皆様は「ガンジー」と聞いてどのようなイメージが湧きますか?

「無抵抗主義」「非暴力」「インド」「聖人」「政治運動」などのキーワードを思い浮かべるかと思いますが、ガンジーが強力な「指導者」であったことは間違い無いでしょう。

しかし、指導者ガンジーがメンタルヘルスに大きな問題を抱えていたことはご存知でしょうか?

今回の記事では、インド独立運動の父こと「マハトマ(偉大なる)・ガンジー」について、精神医学の観点から解説いたします。


【ガンジーとは】

本名: モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー(મોહનદાસ કરમચંદ ગાંધી)

愛称:マハトマ・ガンジー(マハトマとは”偉大な魂”の意)

ガンジーはインド独立運動の指導者。国民会議派を率いて民族解放・独立のために活動した。


↓ガンジーについて詳しく知りたい方におすすめの映画です。

↓Prime Videoでのご視聴はこちら。
https://amzn.to/3FKpEDY


【ガンジーの生涯と病歴】

1869年 (0歳) インドのグジャラート州のポールバンダルにて出生。父親はポールバンダル藩の宰相であり、裕福な家庭に生まれた。

1881年(12歳)アルフレッドハイスクールに入学。

1882年(13歳)カストゥルバと結婚(インドの幼少婚という風習)。
正確な年齢は不明だが、10代の頃のガンジーは精神的に不安定で自殺を試みている。

1885年(16歳)父親が死去(詳細後述)。

1887年(18歳) イギリスロンドンのインナー・テンプル法曹院にて法律を学ぶ。

1891年(22歳) インドに帰国し、ボンベイで弁護士として働く。

1893年(24歳)イギリス南アフリカ領(現在の南アフリカ)え弁護士として開業。この時、イギリス紳士として振る舞うが、列車の車掌から人種差別を受ける。この頃から「インド人」としての意識が芽生える。

1915年(46歳)インドに帰国。当時はイギリスがインドを植民地としていた。
40代半ば、赤痢にかかる。病状が長引き、絶望のあまり自殺を考えるようになる。

第一次世界大戦終結後、インド国民会議に参加。

1919年(50歳)植民地政府がローラット法(暴動鎮圧のための法律)が可決され、ガンジーは反イギリス運動である非暴力・非服従運動を組織するようになる。しかし、同年にイギリス兵士によりインド人虐殺事件が起こる。

1922年(53歳)逮捕され、禁錮6年の刑に処される(ガンジーは生涯で合計6回投獄された)。

1930年(61歳)イギリス政府の塩税に抗議した運動「塩の行進」を実行。

1934年(65歳) 政界からの引退を表明。

1939年(70歳)第二次世界大戦の勃発により、再びインド国民会議の指揮をとる。

1943年(74歳)イギリス政府に対して、「インドから出ていけ運動(Quit India)」を展開。

1945年(76歳)第二次世界大戦が終結。

1947年(78歳)イギリス領インド帝国は解体。インド・パキスタン分離独立。分離独立の前後で、パンジャブ地方を中心に暴動・虐殺が起こり100万人が死亡した。ガンジーはヒンズー教徒とイスラム教徒の激しい対立に悲しみ絶望していた。

1948年(78歳)ニューデリーでヒンズー教徒の青年に暗殺される。


Gandhi spinning yarn, in the late 1920s

【ガンジーのうつ病エピソード】

上記の「ガンジーの生涯と病歴」でも少し触れましたが、ガンジーはおそらく「うつ病エピソード」を少なくとも3回経験しております。

ここから先は

2,322字

偉大な指導者の栄光の影に、苦悩や悲しみあり?歴史上の指導者のメンタルヘルスについて解説!

記事作成のために、書籍や論文を購入しております。 これからもより良い記事を執筆するために、サポート頂ければ幸いです☺️