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人は他人の隙が好き。「良くない」をこそ愛でられる

「推せる」ためには「欠ける」がある。「愛でる」ためには「負ける」がある。人は、物事の欠点を明らかにすることで快感を覚え、物事の傷ついた姿に愛を覚える。
 どんなものにでも、長所と短所があり、勝つときと負けるときがあるものだ。私たちが好きになりやすいのは、どちらか?もちろん、そのマイナスの方だ。
 長所や勝利は「推す」きっかけにすぎない。「愛でる」ための序章にすぎない。その物事を「知る」ところから先に進むために、そして進み続けるためには必ず、その物事が負けたり、短所があったりするという光景と事実が不可欠なのである。

 人は傲慢な存在であり、自分以外の「強さ」とか「良さ」とか「すごさ」というものを、そう簡単には認められないものだ。なので普通、ある人が何かに好意を抱くということは、それを自分と対等かそれ以下に考えていることになる。
 したがって、もっとも簡単な「好き」という気持ちは小動物や幼児に対する「可愛い」なのだ。「美しい」や「綺麗」ではない。それらは多くの場合、自分よりも強大なものや距離の遠いもの、偉人、あるいは人間とは異なる種別のものなどに向けられる感情…「尊敬」である。

「推せる」はもっと、その対象を身近に引き寄せた感情だ。生活の一部にしてしまいたいほどの「可愛さ」を感じており、それはもはや「尊敬」ではない。可愛いと思い続けるためには「尊敬」は邪魔だ。多分、適度にはあっていいかもしれない。でも尊敬の頻度が高まると、それは推せなくなってしまう。すごすぎない「隙」が「好き」に繋がるのだ。
 適度に失敗して、欠点があって、報われなくて、悪くて…自分に近しい、もしくはそれ以下の「良くないところ」がなければ、それを愛でるなんてできない。愛でるとは油断だから、自分より強いと思っている相手を、可愛がるなんてできるはずがない。
 でももちろん、それができるほどには、すごくあってほしい。完全に駄目になってしまったら、もちろん理由がなくなるから。興味を失うから。

 そういうわがままな感情が「推せる」なのである。人が好きなのは自分以外の短所や欠点であり、自分より下のものを可愛がろうとする欲求が、この感情を引き起こさせる。

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