言葉にして何かを語るのは楽しいので、私達は言葉を信じすぎる。
言葉というのはそれはそれは単純化された表象であるところ、確かに語り尽くすことのできる事象も存在するはずだ。しかしほとんどのものごと――特に、私達自身や、人間そのもの、生命、といった深淵なる何かについて、言葉では語り尽くせないところが多すぎる。
それをわからないまま、私達は「人間は~」と語る。よくあるのは、とある犯罪者の心理や、偉大な人間の精神、指導者、為政者など、およそ集団の中で稀な立場にいる「異端者」を語る時であろう。
それらの人々は目立つが故に、何か一般的な人間とはかけ離れたルールを持っているように思える。だからこそ私達は、そういsた人種について言葉にしたくなる。過去の事例や、研究結果、ありがちな法則などにあてはめて、それらの人格を分析する。
けれども、それは架空だ。というよりも、それでもって、その異端者達の全てを理解した気になったり、語り尽くした気になったり、あるいは、正しいことを言ったのだと思うのは間違いである。
重要なのは、異端者だろうがそうでなかろうが、人間とは全て「個」なのであるということだ。それは全て特殊なのである。言ってみれば、それは全て異端者である。誰かが誰かについて言葉にして、それで満足してしまうことの滑稽さはここにある。残念ながら、私達が何かを言い表すには言葉しかないものの、それによって人間を説明するにはあまりにも不十分すぎる。
人格とはかたや論理的であり、かたやそうではなく。ある時は過去にもあったようなことを行うも、しかしその成り立ちは異なっていたり。法則に則っているように見えて、まるで外れていたり。そういったことが全て、予測不可能で中途半端、だがふとした時に整合性をもって成り立っていることのある、不可思議なものである。
それが人格、いや人間というものならば、人間自身が、それについて言葉を尽くすことは不可能なのだ。複雑で深淵にして、しかし単純で浅慮。あげく、自分自身のことすらその全てを管理しきれない存在が、ましてや他者のことなど、何がわかると言うのだろうか。
けれども、そうして人格を言葉で言い表すことは、楽しい。なんだか、それを把握したような気になって落ち着く。特に「異端者」という、およそ一般からはかけ離れたことをする人々を、わかったふうに説明するのはなんともいいがたい快楽がある。
にんげんという深謀遠慮な存在にしてもそうだ。それを言葉にして語ることに面白さを見出さないわけがない。そうすることでわかりたいのだ。私達は、わからないからこそ。いつまでたっても判明しない、予測し得ないこの人間というものを、どうにかしてたぐりよせたい。
言葉が人間を語れないのは当然である。ましてや、異端者のことなど説明できるはずもない。私達は「言葉にする」ことが楽しいからそれをやる。しかしその中身は意味のないものだ。正しいこともあれば、間違っていることもたくさんある。
良くないのはそれを、私達が真に受けてしまうことだ。言葉にされた人格を正しいものだと思いこむ時、そうすればするほど、私達は現実の真の人間を忘れていく。
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