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「面白い」はもう、私達の心の中に住まうものではなくて。

 面白いかどうかを決めるのは、いつからか内心ではなく外の世界の仕事になった。外の世界というのは数字とか、流行とか、社会とか、そういうものである。つまり目に見えるものだ。誰からも明らかにわかる、表示されたもの。それがいつも私達に「面白い」の基準を教えている。
 だから、内心は面白いに関してはもう仕事がなくなったと言えるかもしれない。仕事ではなく、純粋に面白がることに集中できるようになったと考えれば、良いことのように思える。外の世界の基準によって提供されたものを、純粋に受け止めて面白がることが、もう基本になっている。私達の内心はそれに慣れ、自分自身で「面白い」を決めるよりもずっと、外の世界にそれを求めることの方が当たり前になった。

 それがどうかと言えば、特にどうということもない。ただ、それは自然の流れなだけである。そういうふうに私達は流れていったのだ。社会的な繋がりがどんどんと手軽に、そして濃く、そして当たり前になる中で、「面白い」という価値観は個人的なものではなくなった。そういう事実なのである。
 その証拠に私達は、だからといってなんら困ることなく、この現代の「面白い」を受け入れている。何事もなくその価値観によって生きている。なんの気なしにその良し悪しを受け入れて生活している。

 ただし、「面白さ」の外部化が純然たる事実ならば、反対に私達の内心からは面白さの判断は失われてしまったというのもまた、事実である。というよりも私達はムズから、それを外に出したのだから、いまさら内心でそれを判断する気になれないはずである。もしくは、内心で下した「面白い」を、きっと私達は、以前より(多分、ほんの10年程度前)信じられなくなっている。

 そうであるならば益々、私達は「面白い」をもう、外の世界に依存するしかなくなっている。そして内心でそれを判断しようとする試みは失敗に終わる。誰も受け入れないからだ。「面白い」はもう、外の世界に委ねられてしまった。それは内心から出発したものではあるが、無事に旅立っていったのである。いつかまた、それは内心へと帰ってくることがあるかもしれない
 少なくともその時までは、「面白い」は、感じるのは私達の内心だとしても、その価値基準は内心にはないことが、事実としてこの世に存在することになる。

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