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渾身の力を込めた自分は世界からどう見えているのか

 自分にとっての「渾身」は、他人にとってはそうではない。いくら力を込めて何かをしても、たくさんの労力と時間をかけて準備しても、バッチリきまったと思っても、全然、誰にも響かなかったなんてことは普通だ。
 なぜなら繰り返しになるが、自分にとっての「渾身」など、他人にとってはそうではないからだ。

 ならば、渾身を込めて何かをやるということや、手応えを感じるくらいに打ち込むというのは意味のないことなのだろうか。
 どうなのだろう。
 たとえば、そうやって一生懸命に何かをした経験はそれだけで財産になると言われる。あるいはもちろん、そうやって渾身の力を込めて成し遂げた何かは、必ずスキルを育てるのに役立っているはずだ。
 つまり経験とスキル、それが残るのだから無駄ではない。そういう言葉の存在は知っている。

 どうなのだろうか。
 感覚的には、なんとも言えない気がする。確かにそうやって、肯定したくなる気持ちは嘘ではない。だって一生懸命やったのだから。渾身の力を込めて、何かを成し遂げたと思うのだから。それがなんの意味もなかったとは思いたくない。
 とはいえ事実として、自分の経験した「一生懸命」は、他人は目の当たりにできない。他人にとって「私」とは、純然たる「あなた」であって、結果論の塊だ。
 人はお互いがお互いにそうなのであり、それでも他者を認めようと色んな気持ちや感情や認知を持っている。しかしどうしたって、分かりえないことはある。いや、分かったフリはできる。でもそれは結果からの逆算でしかなくて、結果のためにその人がやってきた経験と過程は、どうあったって、他人が知ることはできないし、すべきでもない。

 だからどうしろというのではなく、単にそういうものなのだと私達は了解しておくと良いかもしれないという話だ。他人に理解されることを諦めろというのでもない、頑張って理解されようとしろというのでもない。
 現実を。
「渾身」した自分がこの世界でどういう立場にあるのかをせめて知っておくことは、きっとその生きることの自由に繫がるはずだ。
 そう思って、こういうふうに言うのである。
 自戒も込めて。

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