宗教、信仰、信念、観念。
曖昧な境界で使われるこれらの言葉が、私達自身の存在を危ぶめている。
また曖昧であるがゆえに、これらの事象についての無理解は加速し、私達のこの現実への認識は、大いに歪んでいる。宗教、そして信仰というものは、紛うことなくこの社会に浸透し、生活と精神の一部である。これは「信仰だから」ではなく、単に信念、そして観念という大きなくくりとして、私達1人1人の心に存在するものだから、である。
宗教や信仰と言うと、神秘的なあるいは超常的な(即ち非現実的な)何かと結びつくことをイメージしてしまうのは、間違いのない認知の歪みである。神秘性や超常性は、宗教や信仰とは全く別のものだ。むしろ、それらは意図的に、そして確信犯的に宗教に付与される人工物であって、当然に結びつくものではない。
つまり私達が、人知を超えて信ずるべきだと観念しているものは、何のことはなくそうしておきたい者の意図があるという話だ。それらが、いつそうされたのかはバラバラであるものの、あらゆる神秘や超常現象、そしてその結果、説明されるストーリー等は全て、私達1人1人の信仰――信念とは、関わる必要のないものと言える。
信じるかどうかはその人次第だという自己責任論によって、そもそも、その「信ずるべきもの」そのものが限定されていることが、隠されている。そして、信仰心と信念と、観念を持つということが曖昧なのをいいことに、信ずることは、その全てをすることだと勘違いしてしまっている。
信仰していても、信念でないこと。信念であっても、観念としては同意できないこと。そういったことが、この世にはいくらでもあるはずなのに、私達はいつからか、信じることのわからなさと大きさに飲み込まれ、考えを放棄し、それらを同一視する。するように仕向けられていると言える。
しかしながら、こういったことは別に隠されたこの世の暗部ではない。そしてこのことを利用した巨悪が、あからさまにこの世を支配しているなどということでもない。そのようなフィクション的な、ドラマじみた出来事なのではなく、純粋に素朴に、当然のように私達の「信」は、私達の知っているものではないという話である。
超常性、神秘性、そういったベールと、言葉や定義の曖昧さ。それで良しとしてしまう認知。そういったものが折り重なって、私達は何かを信じて判断することそのものが下手になっている。そして結局、わかりやすい人工物に寄り添う信仰生活が始まるのである。
それを、自然物なのだと思い続けて。
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