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宗教、信仰、信念、観念。

宗教
一般に宗教とは,超自然的な力や存在に対する信仰と,それに伴う儀礼や制度をいう。(後略)

百科事典マイペディア

信仰
神仏のように、自分にとって究極的な価値や意味をもっている対象と全人格的な関係をもち、その対象に無条件に依存し献身する心的態度をいう。経験できぬ不確実なものを主観的に確実であると思い込むことではない。

日本大百科全書

信念
正しいと信じる自分の考え。「信念を貫き通す」「固い信念」
2 宗教を信じる気持ち。信仰心。

デジタル大辞泉

観念
人が物事に関して抱く、主観的な考えのこと。(後略)

実用日本語表現辞典

 曖昧な境界で使われるこれらの言葉が、私達自身の存在を危ぶめている。
 また曖昧であるがゆえに、これらの事象についての無理解は加速し、私達のこの現実への認識は、大いに歪んでいる。宗教、そして信仰というものは、紛うことなくこの社会に浸透し、生活と精神の一部である。これは「信仰だから」ではなく、単に信念、そして観念という大きなくくりとして、私達1人1人の心に存在するものだから、である。

 宗教や信仰と言うと、神秘的なあるいは超常的な(即ち非現実的な)何かと結びつくことをイメージしてしまうのは、間違いのない認知の歪みである。神秘性や超常性は、宗教や信仰とは全く別のものだ。むしろ、それらは意図的に、そして確信犯的に宗教に付与される人工物であって、当然に結びつくものではない。
 つまり私達が、人知を超えて信ずるべきだと観念しているものは、何のことはなくそうしておきたい者の意図があるという話だ。それらが、いつそうされたのかはバラバラであるものの、あらゆる神秘や超常現象、そしてその結果、説明されるストーリー等は全て、私達1人1人の信仰――信念とは、関わる必要のないものと言える。

 信じるかどうかはその人次第だという自己責任論によって、そもそも、その「信ずるべきもの」そのものが限定されていることが、隠されている。そして、信仰心と信念と、観念を持つということが曖昧なのをいいことに、信ずることは、その全てをすることだと勘違いしてしまっている。
 信仰していても、信念でないこと。信念であっても、観念としては同意できないこと。そういったことが、この世にはいくらでもあるはずなのに、私達はいつからか、信じることのわからなさと大きさに飲み込まれ、考えを放棄し、それらを同一視する。するように仕向けられていると言える。

 しかしながら、こういったことは別に隠されたこの世の暗部ではない。そしてこのことを利用した巨悪が、あからさまにこの世を支配しているなどということでもない。そのようなフィクション的な、ドラマじみた出来事なのではなく、純粋に素朴に、当然のように私達の「信」は、私達の知っているものではないという話である。
 超常性、神秘性、そういったベールと、言葉や定義の曖昧さ。それで良しとしてしまう認知。そういったものが折り重なって、私達は何かを信じて判断することそのものが下手になっている。そして結局、わかりやすい人工物に寄り添う信仰生活が始まるのである。
 それを、自然物なのだと思い続けて。

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