信仰が外部化された私達に

 あなたには何か信じるものはあるだろうか。それはどんな些細なものでも構わない。しかし、本当にそれを信じているのだという自信がなければならない。その確固たるものがない「信仰」は口先だけのものになりやすく、それはつまり、あなたがあなた自身に「信じている」と心から言えるかどうかである。だからあなたが何かを信じている時、あなたは自信を持っていることになる。言い換えれば、あなたは何かを信じると同時に、自分自身をも信じているということになる。

 現代では、神も科学も、人間は信じることができなくなっている。もしくはその後ろについて行こうと思わせるような信頼感を、現代の神や科学は失っていっていると言っても良い。だからその原因は、これらそのものにもあるだろう。それらは長年の歴史にかまけて、人々の信用を得ることを蔑ろにしてきたのだから。もはや、神も科学も何が本当で何がそうでないか専門家にしか分からないような代物になってしまったのは、そしてそういう印象がついてしまったのは、そういった怠慢が原因である。
 だが一方で、神や科学を信じない私達はどうだろうか。私達はそれらを信じないばかりか、ほかの様々な「当たり前」や「ルール」すらも、遠ざけようとしている。何が気に食わないのか、もはや自分自身にも分からない。私達は、これまで社会的にあったものをすら、もう信じる意味をなくしている。それは社会だけではない。私達自身の中にあるはずの道徳心や、感情、そういったものもまた、私達は信仰しない

 だが、1つだけ私達が信ずるものがある。それは神や科学のように大きなものではなく、自分自身のように矮小なものでもない。その他様々な雑多なものでもなく、もっとまとまりのあるものだ。
 即ちそれは「集団」である、昨今、私達はこの「集団の意思」によって行動を決めている。即ち私達個人は、この集団というものに信仰心を持っているのだ。
 集団は信ずるのに、他をおいてこれとないものであった。特に、自分自身すら信じられなくなった枝切れのような私達にとって、集団は寄り添うのにちょうど良い大木である。そうして、私達は集団で信じられている神や、科学や、道徳心や、感情や、そしてそれぞれの私達というものを信仰している。
 その根拠は「集団の意思」である。それがたなびく方向へ、私達個人も揺れ動く。それがこうだと定義するものに、私達は頷き心に留める。一般的な神や科学は、もう死んだのだ。それは集団の原理原則に取って代わられた。そして私達自身も、もはやいなくなりかけている。それは集団の意思に飲み込まれつつあるからだ。

 私達は昔のように神や科学を信じない。なぜならそれらは、私達の信ずる「集団」が信じていないからだ。それらに従わない集団というものを、私達は是とし、寄り添って生きているからである。私達の信仰は、この集団というものなしでは語れなくなってしまった。本来、それは自分自身のみに宣言する、自分自身の正当性だった。そしてそうできるだけの自信だった。
 それを失いつつある今、私達は代わりに、心を集団の意思で埋める。あたかもそれが自分自身のものであるかのように。だがそれによって得られる信仰は、最早私達自身のものではない。

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