「わかりやすい」への信仰心を考える

 わかりやすいことはいいことか?

 時代が進むにつれて増していく「わかりやすさ」への信仰心と、その信仰心が増していくにつれて、それそのものを覆しにくくなるという同調圧力。それはこの人間社会において、今のところ、非常に無視しにくい風潮である。

 そもそも、なぜ私たちはわかりやすさを望むのだろうか。それは誰しも、”他人” をわかること、わかってもらうことを望むからだと言えるだろう。それは他人の頭の中にある世界をわかることにも繋がってくる。

 言葉や、絵や、文章や、身体の動きなど、様々な形をとって眼前に表される「表現」は、その人の内面を表し、そして他人にそれをわかってもらうための材料になる。
 その表現が商業的な価値をうむ――つまりお金になるのも、この「価値がある」と他人に理解してもらえることあってこそである。コミュニケーションとしても、そういった表現はもちろん重宝される。「クリエイター」という立場が社会的に大いに地位を得てきたのも、人間の暮らしがこの「表現」そしてそれによる「理解」を望み、以前よりもずっと重視するようになってきたからだ。
 そうして私たちは望むと望まざるとにかかわらず、この「表現」を「わかる」ことを良いことだと捉えるようになってきた。
 当然だ。
 わからなければ、そもそも、そのわかろうとする対象のことを理解する術がない。表されたものが「不明」だったとして、その中身を知ることはかなわない。
 加えて、その価値観が社会にあるということが、既に私たちの中で常識になっていることも見逃せない事実である。
 「わかりやすいですね!」そう言われて、それが罵倒であると捉える人はほとんどいないし、そんな状況はまれなはずだ。私たちは自然に、わかりやすいことはいいことだと思っているし、実際、わかりやすいことで起きる不都合は、そうでないことによる不都合よりも、小さいことがほとんどである。

 だから、わかりやすいことはいいことなのだ。それがそう思われているということ1点において、そして、今のところそうであることに不都合があまり起きていないということにおいて。
 こと「創作」という行為に関して、しかし、このわかりやすさは忌避されることもある。わかりやすさを信奉しては、本当に表現したいものができないという理由だ。そのような観点からすると、わかりやすさから距離を取る人々の心情も理解できる。
 だが結論として、わかりやすさは基本的にはいいことであり、目指すべきものだ。それは、そうでないものは理解されず、評価されず、この社会では無価値なものとされてしまうからである。
 そうなってしまっては、そもそもそれが存在している意義は非常に怪しいものとなってしまう。完全なる自己満足でない限り、わかりやすさは信奉しなければならない。
 もちろん、まず追及すべきは表現の充実性であることは当然ながら、なお、わかりやすさとはそれと匹敵するほどに重要なものである。ときとして、表現の充実性をある程度諦めても、わかりやすくしなければならないということもあるほど、これは表現において優先度の高い要素であることを、忘れてはならない。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ。

※関連note


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?