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「どのように生きたいのか」に答えられない

 それはわからないからだ。
 決めることができないと思っているその諦めが、答えようとする気持ちに待ったをかける。そして答えてしまったら、それがもし間違いであっても、もう訂正できないと考えている。
 未来のことを決めるのは、自分だけしかいないということを私達は実感できない。それは未来だからだ。目に見えないものを掴んだという実感がわかないのと同じように、未来を決定したという実感もまた、その未来を目の前にしたとしてもわかないものだ。それに加えて、「どのように生きたいのか」という問いは、私達にとってもはや抽象的すぎる。

 今の時代、「生きる」は具体的に示されるものだ。職業、年収、流行り、言葉、ニュース、計画。多くの情報が、具体的にあなたの行き方を決めてくれる。参考にできるサンプルも多い。なにより、「このように生きている」というビジョンが明確に、説得的に、そして計算高く示されている。
 そういったものを見聞きすることがとんでもなく簡単だ。少し手を動かしただけでそれを想像できる。自分にとって何が進むべき道なのかを想像することを、やる気にさせてくれる。具体的なビジョンがあるから。

 けれど、そうだからこそ。私達はビジョンなきもの、抽象的なものに対して、鈍感になってしまった。イメージを、イメージのまま受け取ることが難しい。例えば「赤」といえば「血」とか「事件」とか「ポスト」とか「炎」とか、そういったものをすぐに連想しないとすまないくらいに。
「赤」は「赤」でいいはずである時にも、そのような余計な具体例が頭に浮かぶ。現代に溢れんばかりにある具体の波に翻弄され、溺れる私達は抽象を語ることが難しい。

 そのために、「このように生きている」ではなく「どのように生きたいのか」が答えられない。選ぶべき選択肢はそこになく、自由回答的な問いに、私達は頭を悩ませてしまう。もしくは自由に回答しようとして、真っ先に「正解」を探してしまう。そんなものはないのに。ある必要がないのに。「どのように」はあなたのものだ。あなた以外のものでも、ましてや、この世界のものでもない。
 それをわかっていても、やはり答えることはなかなか難しい。見えない。知ることができない。準備も許されない。具体の世界にある抽象に対して、私達は依然として、準備を整えられないからだ。

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