見出し画像

誰かに認められるから、何かを表現するという当然の動機。

 新しいことを思いつくと、あなたはそれを誰かに言いたくなるだろうか。家族、恋人、友達、知り合い、同僚、聴衆。他人に、この、自分の(中では)世紀の大発見を言って聞かせたくなることは、至極当然の気持ちだし、むしろ、そうでない人のほうが少ないかもしれない。
 喧伝や吹聴は、人間の本能とでもいうべき行動である。人によってそうすべきと思うこと、そうしたいと思うことの基準は異なるが、1度スイッチが入ったならば私達は、それを他者に伝えたくてたまらなくなる。披露してみたくなる。

 だって、そうすれば「すごい」とか「知らなかった」とか「なるほど」とか、リアクションがもらえるからだ。そして、その伝えることは自分自身のことでなくていい。自分を開示することは抵抗があっても(よく知らない人に自分のことをペラペラ喋るのは難しい)、何かそうでないことについての「新発見」つまり、何らかの驚きや喜びをもって迎え入れられそうだと考えられることを表現するのは、すごくすごく気持ちよさそうだと思えることである。そうした後にもらえる、他者からの反応を想像すると。

 クリエイティビティの根源は、この自己顕示欲が大きな1つだ。私達が何かを表現したいと思う(広い意味での創造性)時、そこには私達自身の「自分をよく見せたい」という願望が潜んでいる。むしろ、目的がそれだけしかない創造も存在するくらい、自己顕示欲はクリエイティブな行為と密接だ。クリエイティブが、それを発揮した本人の手柄であることは言うまでもないというルール。そのおかげで、私達はいかんなくこの力を使って、そしてそれを見聞きした他人から称賛をもらって、そして生きることができる。
 創造性とはそのような、精神の糧となるような、心を生きながらえさせ肥大化させるような、そのための人間的行為と言える。

 無から有を生み出すこと、今までとは異なる視点で語ること、誰も気づかなかったことに気づくこと。そんな様々な形の創造性の向かう先は、基本的に自己顕示欲という、精神的空腹を満たすために行われる。もちろん、その生産、観察、発見……そのものが目的になることもある。しかしそうだったとしても私達は、自己顕示欲がなくなることはない。
 自己を顕示しなければ、この世界に生きていてよいか不安になるからだ。そうやって世界との(他者との)繋がりを確かめることが1つの生きることだからだ。そのための力の1つが「創造」である。精神の空腹は、精神によってまかなう。それが人間の摂理である。

 でも、クリエイティブな行為に対して、妙な潔癖を示してしまう人々は少なからず存在する。まるでクリエイティビティが、ただそれだけを目的としていないと成り立たない(いわゆる、孤高の研究者や芸術家のテンプレートの)ような、純白さしか許さないとでもいうように
 でも、自己顕示欲とは生きるために必要なのだ。だから私達は、その持って生まれた創造性を道具として利用することも許される。それは自分の能力だから。もちろん。誰にはばかられることなく、私達はこのクリエイティビティを、誰かに認められたり、褒められたり、尊敬されたりするためにふるうことを、邪魔されるいわれはない

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?