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変わりゆく「人」と、自分との関係と

 自分が友人を失って手に入れたものは、すぐにいっぱいになる郵便受けと、電子メールボックスを圧迫する勧誘メールと、電話やSNSのメッセージと、それらを無視しても数分おきに携帯に現れる通知だった。友人を失ったのは現実のことだったが、代わりに現れたそれらの殆どは自分の目の前に現れるわけでもなく──画面上や音声としてはあるが、空間を共有していないという意味で──ただただ、自分の時間と精神を蝕んでいった。
 周囲の人からは「無視が1番」とか、「そのうちいなくなる」とか、「気にしなければ慣れる」とか、そういった言葉で慰められた。何度か、「気分転換でもどう?」「知り合いの専門家を紹介してあげる」「同じ悩みの人に話を聞きに行こう」などとさも心配していますといった表情で言われた事もあったが、その全てはまた別の何かに、自分を誘おうという小狡い企みの1つに過ぎなかった。

 友人は、かつてきさくでとても思いやりのある、いわゆる「いいやつ」だった。小学生から大学生まで一緒にいて、友人は努力家だったから、とある大企業に勤めてとても人生を楽しんでいた。学生時代よりも距離が離れてしまったけれど、月に一回くらいは一緒に飲みに行ったりもしていて、変わらず、周囲に好かれて幸せそうな人生を送っているみたいだった。そんなふうにして、友人は幸せな未来を謳歌していくのだと自分は疑っていなかった。
「──学びがあるんだよ、そこにいると」
 ある日、数カ月ぶりに連絡してきた友人から良い店があると誘われて訪れた小料理屋の座敷席には、すでに1人の女性が微笑んでいた。自分は最初、友人が結婚でもするのかなどとあらぬ期待をしていたものだが、事実は異なっていた。
「学びって……勉強会みたいな?」
「いや、そんなくだらないものじゃなくてさ、もっと深いことが分かるんだ。この世界の本当の仕組みとか、裏側とか」
 ペラペラと興奮したようにしゃべる友人に、自分はぞっとした。いや、正確には違う。もちろんそんな友人のかつてない姿には驚いていたが、なにより、その隣でニコニコとしたまま一言も話さない女性の目が、全く笑っていないことが不気味だった。
「……資産主義というのはご存知ですか?」
「し、資産? 資本ではなくて?」
 だから自分は、そんな女性がゆっくりと吐き出したその言葉に、思わず返事をしてしまった。反射的に。何も言わないままだと、彼女の言葉をそのまま吸い込んでしまいそうな気がしたからだ。
「資産主義です。詳しいことはこちらにまとめてありますので、お暇がありましたらどうぞ」
 丁寧な所作で、女性はパンフレットのようなものを渡してくる。表紙には欧米人らしき家族が、ペットの犬と楽しそうに緑の中で遊んでいる様子が描かれていた。
「興味があったら連絡してくれよ。分かってるのと分かってないのとジャ、この先全然違うんだ。パンフレットは簡単なやつだから、詳しい話が知りたければ俺でもいいし水野さんだったらすぐに説明を──」

 残って2人で話すことがあるという彼らを置いて、自分は明日も早いからと適当なことを言ってその店を出た。外の空気は美味しく、生き返ったような気がする。右に曲がりかけて、帰り道は左だったと気づいて慌てて方向を変えた。
「あっ、すみません!」
 店に入っていこうとする人にぶつかりそうになって謝る。
「いえ大丈夫ですよ、お怪我はありませんか?」
 ハキハキとした声。顔を上げると、いかにも仕事ができそうな男女がにこやかに笑っている。自分も曖昧な笑みを返して、もう一度会釈する。ふと、男女の後ろに少しくたびれた服装の男性が立っていた。にこやかな男性がすぐに振り返って、そのくたびれた男性に入店を促す。彼らはそのまま、吸い込まれるようにその店の中へと入っていった。

 そうして、友人を失った自分に残ったのは、まだそのことに気がついていないらしい友人本人や、その関係者らしき人々からの連絡だった。最も驚いたのは、この世界に個人情報の保護などありもしないということだった。
 電話番号はもとより、名前や住所の類、メールアドレス、それから数年前に作って放っておいたいくつかのSNSアカウントですら、例の「資産主義」とやらの勧誘に使われていた。誰が漏らしたのかはもちろん1人しか答えはないが、10年以上の付き合いというある種の信頼は、こういったことに全く無力であるのだと思い知らされた。
 そんな波状攻撃に耐えかねて抗議の連絡をしようとも考えたのだが、少しでも反応を見せると泥沼化するという、数少ない信頼の置ける筋からの情報により、自分は本当にもうこれについては無視を決め込んでいる。

 近々、携帯電話の機種変更と一緒に、使っていないSNSアカウントは放棄する予定だ。友人は──もう友人ではないが、かつての──自分のことをどう思っているのだろう。自分から関わりに行くことは最もやってはいけない悪手だと言われ、ようやく諦めもついたものだが、しかしまだ、彼をこのままあの中に置いておいて良いのかと思う瞬間はある。
 自分から見て、彼はすごく順調に人生を歩んでいるように見えた。そして今も、多分彼にとってはその人生の延長線上に彼はい続けているのだろう。それは単に価値観の違いなだけかもしれないが、少なくとも自分にはついていけないものだと感じた。

 今日も、朝のゴミ出しのついでに郵便受けの中身を空っぽにしてから仕事に向かった。そういえばかつての友人は、朝はゴミ出しをする暇がないなどと、冗談めかして言っていた時期があった。思えばあの時に、何かの掛け違いと、運命の出会いがあったのかもしれない。
 そのことに気づけなかった自分に後悔したが、その後悔を充分に噛みしめるにはもう、自分の中にかつての友人は残っていなかった。彼がまだ確かに生きているからこそ、彼との距離はどんどんと離れていくように感じていた。
 そうして、朝の人混みの中に独りで入っていく。
 今はそこに詰め込まれた名も知らぬ他人達の方が、よほど、自分との距離が近かった。

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