嫌われている気がするとか自分を好きになるとか
どうしてこんなに僕は僕のことが好きなんだろう。
10代後半になっても息子は言っていた。夫も私も「良いじゃない」とうれしくなってしまう言葉で、私たちにとって大きなごほうび。
だって父さんも母さんもそんな風に思えるように接してきたはずで、努力してきた部分なんだもの。
子供と接してきて「こうするのが正しい!」とか「成功した」とか何年経っても自信は増さない。息子の今を見ていると問題ないはずなのに本当にこれで良いのかなと心配になってしまう。自分に対しても、ああ良くない接し方だったなとあんな態度の自分、こんな言葉をかけた自分が思い出されて、なんとも頭を抱えたくなる。後悔しないようにがんばってきたけれど。
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先日、自分がこの人にもあの人にも嫌われているのかしらと妄想が膨らんでしまい、それを振り払うのに苦心した。
必要以上に卑屈になったり自分を傷つけるのは問題があるのを知っている。10年ほど前だっけな。克服したのは、人の不機嫌と私の自己否定とをつなげないこと。
これは幼い頃に兄から受けた心の傷が思いのほか深いことと関連していた。単発的でなく、何度も何度も言われ、そのような態度を受けたので、きっと強く私の心に刻まれてしまったのだろう。
自分の無邪気のために思慮の足りない言葉を発してしまい、それに対して意地悪な言い方をされる。その嫌味と憎らしそうな表情に、私が涙を流す。
すると「かせみが悪いのにまた泣く」「自分のせいだろ」とますます責められて、最終的には怒らせてごめんと私が謝る。だから親にも言いつけない。親も「かせみが悪いの」と言い張ってしまう私を否定しない。
そのころ、自分だけが悪かったと本気で思っていた。けど待って。私、まだ5~6歳だった。無邪気で思慮が足りないなんて当たり前じゃないか。家庭にいてそれが許されない環境ってしんどいよ。
このパターン、大人になって互いに親の立場になっても何度かあった。上から見下ろされても目の前で泣きはしないけど、腹が立つのにけっきょく私が謝る。
そしてその関係性を他人との間にも見出してしまい、自分を責めがちになる。
だから誰かが怒ったり機嫌が悪くなったりするのは「その人の問題」と言い聞かせるようにがんばった。ひどくはなかったけど、身体的にも自傷の傾向があった。克服したくてトラウマの克服法を自分に合うやり方でがんばった。
カウンセラーや友人たちからも温かい言葉をもらい、夫ともケンカしつつ根気よく接してもらい、乗り越えられたような気がした。
行動は落ち着いたけど、気分はそういう方にいまだ時々でも引っ張られてしまう。
気持ちがそう動いてしまうのだから、そういった部分で自分を責めるのも、もうやめたい。
少しずつ考えも軽くなっていったけれど、noteを始めてから自分の文章の力があまりに稚拙でまた自分の評価を下げることの連続。特に最初の2年は今以上にひどかった。人に受け入れられないと感じるのも怖かった。
何年かかけて少しずつ自分と折り合いをつけていくけど、それでもちっちゃく「コンプレックス」として頭の片すみにずっと存在している。小さくても決して離れてはくれない。
日々、振り払い、なるべく小さくしたそれをあまり見ないようにしながら、心からの「好き」を携えて、どうでもない文を書き続けて載せる。
なのでそこを刺激されると猛烈に苦しい。
幼少期そんな風に言われた人からマウント取られると、自分がいかに愚かで無能かと言われているみたい。
自分の中にそういう気持ちがあるのだったら向上心につながるのではと思うかもしれないけれど、私の場合はそうもならない。
それに本当は具体的に、文章とか何かとかいうより、人として全体的に見下ろされている感覚。相手が相手なだけに自分の中の血がぐわっと逆流するのが自分でわかる。
自分の心を分析したら、そこからはなるべく好きなことを考えたり行動したりして心を冷やす。昔の自分みたいにそのまま卑下しないようにする。
でも何とかギリギリで落ち着かせていたところへ「あれ?」ってなにか違和感があってモヤモヤが重なると、ついにああ私なんて。と落ち込んでしまった。自分が嫌われている気がしてすごく気分が沈む。
そんなことないだろうに。と頭ではわかっているのに。
むしろ普段の私は、好きな人以外の、嫌いな人やどうも思わない人に嫌われてもしょうがないと気にしないでいられるのに。
ぐるぐるイヤな考えがつきまとって離れない私にとって、今の時代ありがたいのは、あーだこーだと言葉を検索して自分にしっくりくる考えと出会えること。もちろん持っている本の中からも思考を変えるヒントを探す。
今回は目についたのは、「嫌われている、と思うのは他でもない自分が自分を嫌っているから」。
つじつまが合っているからそうなのかもしれない。
でも。
じゃあどうすれば良いのか。
オロオロ右往左往気持ちが揺れたあと、どうにかしようと、さらにあれこれ調べる。
その中で参考になったのは「子供を無条件に愛するように、自分を愛しては?」ってことだった。特別キラキラのスピリチュアルなことではない。思考のコツ。
自分の子供に「大好きだよ」って伝える時、何かができたからとか、いい成績や結果を出した「から」「好きだよ」とは、つなげないようにしていた。
そのタイミングは唐突で「なんで今!」って自分が子供の側なら思いそうなところだけど、ずっとそうやって接してきたからか、息子にとってはなんの疑問も持たないようだ。「ありがとう」といつも言う。
思春期の頃はボソボソ。タイミングが悪い時はイライラした表情で。
息子を注意したり叱ったりした後でも。一息ついてから「それでもそれとは関係なく息子クンのこと大好きだよ」と伝えると、ゴキゲンな時はニカと笑顔を向けて「ありがと!」と言ってくれるのだ。
好きに理由なんてない。
なにかに対してよくがんばったんだねとか褒めることはあっても、「だから」好きなわけじゃあない。
自分に対してもそのように接しませんかってことだった。
あれもこれも理由を見つけて嫌いになる必要なんてないんだ。
「今日〇〇をしたから」「何かをがんばったから」私を好きなのではなくて、別に条件なんか必要ないじゃないか。自分を好きになってあげたら良いじゃないか。
好きな自分も確かにいる。そこには理由とかじゃなく、好きなことを語っている自分とか、楽しく時間を過ごす自分が見える。
何より息子に「僕は僕が好き」と言えるように接してきたではないか。私も私に育てられたかった、と思った時。あれっ。それで充分なんじゃないの。と思えた。
20歳超えた息子はそりゃ落ち込んだり、自分なんか、ってダメな部分と向き合うこともあるだろう。それなりに息子も、なかなかの悩み多き若者のようだから。今でも「僕は僕が好き」って、時には思い出してくれていると良いな。
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