私が自炊(料理)コンプレックスから抜け出した方法
料理をする時、私は基本的にレシピを見ない。
決して、レシピなんて無くても何でも作れるのよ!というマウントを取りたいわけではない。
理由はシンプルに、面倒だから。
初めて作るものや調理工程がわからないものはレシピを参考にすることもあるけれど、そもそも日々の暮らしで毎度毎度目新しいものに挑戦することなんてない。
大抵、野菜や肉をガーッと炒めたり、煮たり、浸けたりしたものを、ごはんと汁物で食べる。
たとえば野菜炒めなら、塩コショウ・バター醤油・焼き肉のたれの3パターンもあれば飽きないし、これくらいの味付けならレシピはいらない。
ごはんのおかずになる程度の味がつけば満点。
カレーだって、ルーに書いてある水の量さえ大幅に間違えなければ、奇をてらわない限り食材は何を入れたってだいだい美味しくなる。
麻婆豆腐に至っては、「少しの甘みと辛みと塩気があればいい」くらいの認識。
だから、私の料理に定番はあるようでない。
味付けだって、その時家にある調味料で作るし、何かを切らしていれば代用するか使わないかだ。
夫はそんな私の料理に対して
「同じ料理でも毎回違う味がするから楽しいね!どれもそれぞれ美味しい!」
とコメントをくれる人格者である。これはノロけだ。
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職業じゃないのが不思議なくらい料理が上手な人は世の中にまあまあいて、ありがたいことにSNSなどでその美味しそうな料理をシェアしてくれているけれど(そして超憧れるけれど)、頑張りすぎる自炊は続かないのを私は過去に何度も経験してきた。
1人暮らしを始めた大学生の頃は、ノリで急にお邪魔してもおしゃれな料理をサッと仕上げて美味しく出してくれる友人が羨ましくて、それが出来ない自分が恥ずかしいと思ったこともある。
でも、他人の満点を己の力量を無視して自分に当てはめてしまうと、いつまでも30点や40点をうろつくばかりで、自己肯定感はだだ下がりし、作るたびに自分の料理の微妙さに落ち込み、好きだったはずの料理がどんどん苦痛になっていった。
だから、あの頃は自炊していたのにもかかわらず、家に泊まりにきた友人や、恋人にさえ料理をふるまうことが嫌だった。
自分で言うしかないけど、決して食べられないレベルではなかった、はず。
大焦がししたことも、砂糖と塩を間違えたことも、喉を通らないほど味が薄いことも濃いことも、奇天烈な色をしていることもなかった。
ただ、料理上手な人と勝手に比べて「こんなパッとしない料理は人に出せない」と思っていた。
誰にも否定されたことないのに。
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でも、年を重ねるなかで、農業を経験し、さらに結婚して自分以外のためにも料理せざるを得ない状況が続いたことで、次第にそのコンプレックス的なものは消えていった。
誰かの参考に、はならないと思うけど、1つの例として、備忘録としてまとめてみる。
▪美味しい食材に全力で頼ることにした
私の料理に対するスタンスの変化において、農業を始めたことは大きいと思う。
農業法人に就職し、職場を変えながらも野菜や米などの栽培に携わったことで、そもそもの食に対する意識が変わった。
よく言う「農家さんの苦労が~」とかはまあそうなんだけど、何よりも、美味しい食材の味を知った。
栽培方法や土地の気候などを熟知し、丁寧に作られた新鮮で豊かな食材は、そのものが美味しい。
ずっと苦手意識のあったレタス。
早朝の収穫で、検品も兼ねて畑でそのままかじりついた時、その美味しさに混乱した。
こんなに美味しかった?あれ?めちゃくちゃ美味しい。
食材を知り、美味しいものを知り、選び方を知ったことで、あれこれ工夫しなくても食卓に美味しい物が並べられるようになった。
私が工夫しなくても、茹でるだけ、蒸すだけ、お醤油を垂らすだけで美味しいとわかっているから気がラクになった。
これは余談程度に聞いてほしいのだけど、もし料理に自信が無い人は、美味しい食材を味方につけてみてはどうだろう?
個人的な意見では、野菜で言えば「高い=美味しい」とも限らなくて、「鮮度がいい=美味しい」の方が当たりやすいと思う。
都市部で探すのは難しいかもしれないけど、全国から仕入れる大手スーパーではなく、近隣で育つ野菜を扱うお店や仕入れのいい八百屋さんを探してみると見つかるかもしれない。
(大型店は独自の流通や品質保持の工夫がされているので一概に否定はしません。)
鮮度の良さなんて見分けられないという人にとっては、仕入れにも携わるであろう専門店の店員さんの方が頼りになることが多いと思うので。
あと、旬のものは流通量も多く、値段も下がり、回転がよくなるため新鮮なことが多いので目安にしてもいいかも。
最盛期の野菜は栄養価も高くなると言われているし、お得感満載。
▪誉め言葉はありがたく受け取る
どんな料理も、時に自分でイマイチだと思うモノも「美味しい!作ってくれて嬉しい!」と全肯定してくれる人の存在はありがたすぎる。
ちなみに、夫はもともと思いを言葉にするのが苦手で、心で思っていても「ありがとう」や「美味しい」がパッと出ないタイプだった。(決して性格がひねくれているわけではなく。めっちゃいい人。)
それを、私が半ばパワハラ状態で食事の感想(ただし嘘は不要)を強要したことで、今では自発的に言ってくれるようになった。
後日談だけど、私は夫といる時、何を食べる時も「これめちゃくちゃ美味しい!」「ショウガが効いてて最高!」「これクミンが入っているね!」のようにとにかくコメントをしているらしく、それが楽しそうで美味しそうでいいなと思ったらしい。
素直な誉め言葉は、なんぼ言ってもなんぼ言われてもマイナスにはならないからね。
これは料理に限らず大切にしたい。
▪めちゃくちゃマズい料理なんてそうそう無い
そして、過去のどんな手料理も美味しかったと気付いたことも救いになった。
若い頃は、おしゃれで美味しいものを作れる人にばかり目がいっていたけれど、だんだんと、どんな料理でも私のために作ってくれたなんて嬉しすぎるしありがたすぎると思えるようになった。
視野が広がったということなのかもしれない。
口コミはおろかネットにも情報がほとんど無いような小さなお店の丁寧に作られた料理も、たま~に夫が作ってくれる男飯的なものも、友人んちで食べた友人や親御さんがふるまってくれる料理も、気付けば全部美味しいと思えていた。ありがたいと思っていた。
もちろん全部が全部、めちゃんこおしゃれだったり、飛びぬけて美味しかったりというわけではないけど、嘘偽りなく全部美味しかった。
どうしても口に合わなくて食べられなかったという経験はほとんど無い。
「母ちゃんの料理が美味しくない」「あの店マズ過ぎて食べられなかった」という人にも少なからず出会ったことはあるので、私はきっとめちゃくちゃ食の運が強いのだろう。
いずれにせよ、私はプロでもないし得意でもないのだから、自分の料理をそこまで下に見なくてもいいかもな~くらいには思えるようになった。
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おしゃれな器も、映える盛り付けも、友人を呼んでホームパーティー出来るような美味しさもないけれど、毎日「ほどほどに美味しい」が私にとっての満点とすることにした。
適当に味を付けて、毎回違う味になるけどそれなりに美味しいものが作れるというのも、自分の長所と思うことにした。
どんなに簡単でも、シンプルでも、料理をしたことが偉いと思うようにした。
誰に褒められなくてもいいやと思うようにした。食べられれば十分。
そうしたら、日々の自炊が気楽になったし、だからこそ余裕のある時は「いつもより丁寧に作ってみようか」「新しいものに挑戦してみようか」という気持ちがポジティブに生まれるようになった。
もし失敗したら、必要以上に落ち込まず「あーやっちまった!こりゃダメだ!よし!カップラ食お!うめー!!」で、いいじゃない。
自炊が、自分を追い込むものになってはいけない。
ごはんを炊いて、生卵を乗せて、さらに塩昆布とゴマを乗せる。
インスタントみそ汁に冷凍の刻みネギを乗せて、お湯を注ぐ。
私はこれも自炊ってことにしているし、実際やってみると見た目も「あれ?これ結構サマになってない?」って思える。いいよいいよー!
そうして自分でも気づかないうちに、じわりじわりと、私は自炊コンプレックスから抜け出していた。
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