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書くことは思い出すこと: 原風景の中の荘子

BGM: Oasis - Whatever (Official

胡蝶の夢という言葉を、荘子は遺しました。「蝶になった夢を見た、夢から醒めた私は、あの蝶の見ている夢なのだろうか」少し考えると、蝶が夢を見るためには人間社会のことを理解する必要があり、 蝶が夢を見るにしては、前提条件が大きすぎるから無理だよね、という見方もできます。 でも、荘子が言っている、自然と自分を区切らない考え方は、特に現代を生きる私たちはあまりに忙しすぎますから、彼の思想から学ぶことは多いと考えます。

原文
昔者莊周夢爲胡蝶。栩栩然胡蝶也。
自喩適志與。不知周也。俄然覺、則蘧蘧然周也。
不知、周之夢爲胡蝶與、胡蝶之夢爲周與。
周與胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。

書き下し文
昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩々然として胡蝶なり。
自ら喩しみて志に適へるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。

訳文
以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。

胡蝶の夢 - Wikipedia
コントラスト

原風景には自分のルーツがあります。おそらく3歳ぐらいだと思うんです。見るもの聞くもの何もかもが新鮮なわけです。「これも知らない、あれも知らない、これは何だろう」ということなんですけれども、 3歳児なりに驚くことはあるわけです。「こんなにいろいろいっぱいあるのに、なんか共通パターンがない?」っていうのが 、私の思考の原体験です。 もちろん、3歳児が「なるほどこれが帰納法か」などと言い始めたりしませんけれども。

はじまり

パターンを抽出することを意識して成長しました。例えば3歳からポンと時間が経って20代で仕事を始めた頃、研修受けて配属された先で マニュアルを参考にしろって言われるんですけど 、高いデータベースで構築しただけで誰も更新してないから マニュアルが役に立たない状況でした。「マニュアルはそこにあるけど、参考にならないから 私たちのやることを覚えろ」って言われました。その後、半年もしないうちに、マニュアル作り直しました。会社に貢献しなければと思ったんじゃなくて 普通にできたからやっただけなんですけど。仕事、 研修受ければだいたい理解しますし、 3ヶ月、半年と経てばだいたいわかるようになります。分かったら言語化すればいいので、新たにマニュアル作れます。この仕事の理解とマニュアル化で、パターン抽出(帰納法)が武器になりました。
マニュアルはやけに高価なデータベースで更新するのでは、すぐに古びてしまいます。だから、シンプルにしてほぼ自動的に更新できるような形に整え、 上司に手渡しました。すごく喜ばれました。適切に評価してもらえました。3歳の頃の「なんか共通のパターンがある」っていう感覚が、20代になっても保たれています。

個性

14歳の頃、時間があると図書館や書店に通って本を読むのが好きでした。犬養道子作品を読んでました、 星新一、阿刀田高も好きでした。カミュの『ペスト』に関しては半ば意地になって、中学2年の前半で何としてでも理解してやるって、本を一冊シャーペンで線を黒々と引きまくり、 分かんないことは辞書で調べ、齧り付くように読みました。 『異邦人』や『シーシュポスの神話』は『ペスト』に比べればそこまで負担はなく、 読んでみると中学2年生の身の丈で得るものがありました。煎じ詰めるとカミュは『ペスト』と『シーシュポスの神話』で 自身の実存主義はこういうことだ、と言ってるわけですから、『ペスト』と『シーシュポスの神話』に共通点があるのは当たり前ですね。14歳の私にとっては『ペスト』は『シーシュポスの神話』を豪華にした感じだと受け止めました。『異邦人』に関してはあまり好きになれなくて、今にして思うと小説の形をした思考実験なんでしょうね 。読むと、なるほど不条理だって分かりますから。

本が共にあった

幼い頃は成長することは憧れでした。 3歳児だったら幼稚園のお兄さんお姉さんが眩しく見えますし、 幼稚園で黄色い帽子と青い制服、運動服みたいなやつですね。 あれを着ていると、着てて恥ずかしいという気持ちはないんですけども、 小学校楽しそうだなぁ、ランドセルいいなぁと思うのです。それで、小学生になると、小学6年生のお姉さん達は大人の女性と同じくらい大きく見えるわけです。 だんだん大きくなっていって、4年生ぐらいになると中学校どんなとこかなと、考えるようになります。

おおきくなること、のこと

いざ中学生になりました。14歳です。思春期でものすごくヒリヒリする感覚と生きていました。 多感な時期っていうのはとても正確な表現ですね。14歳の私は「このヒリヒリはなんとかならないのか。大人になればもっと強くなれるのだろうか。 大人になったらもっと自由になれるんだろうか」と考えていました。

問い

確かに大人になったら強くなれますけれども、 例えばそれは、「14歳の君が言いたかったことはこういうことだろう」とか、「3歳の君が言いたかったことってこういうことだよね」と、言語化できる部分は強いですよね。また、どこに住むのか、どこで働くのか、あるいはどこで学ぶのかとか、毎日食べるものをどこで買うのかとか、もっと言えば、 なんだろう、 今日ご飯を作るか作らないか、冷凍食品を食べるか食べないか、あらゆる選択肢があります。あるいは、資産運用とか、家計簿をつけるつけないだって、ご家庭ごとに方針があるわけです。そういう自由はたくさんありますけれども、でも、大人だから自由だとは思ってなくて、 僕らの自由って限定的であって、無制限に自由な状態っていうのはないですよね。 なので、14歳では見通せなかった部分というのもあれば、14歳だから推論を誤った、前提を誤ったのでしょう。おそらく私にとって大人は頼りになって立派な存在でした。

確かに変化する、けれど

大人は大人として振る舞います。だから、大人が見せない部分がある。大人も心の中にデリケートな部分はあるし、 痛みは大人になってもあるし、あるいは大人だからこそわかる痛みの味ってあるじゃないですか。 リーダーの責任の重さ、喪失の痛み、自由に決められるから生じる苦悩、など。そもそも大人にいつなるのか、国が決めるのは成人ですし、 保護者いなくても契約していいですっていうルールは確かに大事なんですけど、個人的には20歳の前半ぐらいでも私はまだ自己形成やってました。それまでは「分かりました」とか、「うん、やっとくね」みたいな感じの人間関係だったのが、 「承りました」っていう人間関係に変わります。 結局、いつ自分が大人になったかっていうのは、それぞれの人が、各々に「私はあの時、そういえばもう大人になってたな」と、振り返り実感するものに思えるのです。

振る舞いと自己確立

人間は20代後半ぐらいからゆっくり加齢が始まって、 例えば20代から30代に変われば、 「徹夜がきつくなった」みたいな感じにちょっとずつ変化が現れて、 そのうち私たちが努力して獲得したことを手放し、 人生の秋や冬を通って、一生を生き抜くと思うんです。 そういう観点では、手放す時期であっても、そこで私たちは成長できる。 手放す季節であっても、どう手放すかということで、私たちは成長することができるから、 成長は、自己を拡張し磨き上げることだと言えます。 言い換えると、「いくつになろうと君は君だよ」と、私は14歳の自分に伝えたいわけです。 生きていることは、成長や老化を伴います。 生命力のかたまりの赤ちゃんでさえ、寿命は決まっており、 有限の存在です。 「有限だね」という点は、蝶であれ自然であれ共通です。荘子の思想が、現代の日本に伝わるのも分かるよ、と私は頷いたのです。

蝶も私も夢を見て自然に帰る


ご参考までに。


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